ニュースレター第67号「研究の現場から」
100 年前の移民問題より、今日を考える 秋田真吾
既存のデ.イシプリンに即した狭い範囲でいうと、わたしの専門領域は19世紀後半から20世紀前半のアメリカ合衆国(以下アメリカ)における移民統合、ソーシャル・セッルメントの歴史ということになる。アメリカの歴史は400年余りに過ぎず、旧大陸諸国と比べ、歴史がないと考えられがちである。しかしながら本当にそうなのか?まずはその点から問いたい。
一体歴史は上地に帰属するのか、それとも、歴史的存在に他ならない個々の人間に帰属するのか、わたしは後者であると考える。先住民、白人入植者、黒人奴隷、移民といったさまざまな文化を持った人々によって重層的に構築されたアイデンティティなり日常的な価値観なりこそがアメリカの歴史である。
アメリカの歴史を、諸民族集団によって構築された重層的なものとして把握することは決して間違いではない。しかし、必ずしも対等な立場で諸民族の文化が並存しているわけでもなければ、文化が混清しているわけでもない。主流派をなす白人プロテスタントによって、移民や黒人・先住民らマイノリティ集団は包摂・排除されてきた歴史的経緯がある。この白人プロテスタントによるマイノリティの包摂・排除の過程は、まさしく白人プロテスタント自身の他者への願望や恐怖の投影であり、白人プロテスタント自身を物語る性質を持つ。
上記の如く考えた時、20世紀前半にヨーロッパ系移民を対象として行われたソーシャル・セッルメント運動は、移民をアメリカに包摂しようとする側面のみならず、白人プロテスタントの願望や恐怖を、移民に投影しようとする運動であったとも言える。この運動は、都市のスラムで孤立して生活していた移民労働者の生活を向上させるとともに、移民労働者にアメリカ民主主義を受容させるという目標があった。その方法は二つに分岐する。一つはアメリカ人、つまり白人プロテスタントの生活様式を習得させようという方針、もう一つは移民集団の自律性を重視しようという方針である。
後者の代表例として指摘できるのがジョン・コリアによる実践活動である。かれの移民組織化の特色は、移民の独自性を尊重し、移民による自治を実践させつつ、移
民に民主主義を実践させることであった。
コリアの同化主義への拒絶は、かれのアメリカ主流文化に対する眼差しと呼応する性質を帯びていた。コリアは産業革命の結果、アメリカ文化が商業主義的となり、個人化、孤立化が進行しつつあると考えた。そしてかれは、工場を行き来し、機械を相手に労働し、休日を映画館で過ごす都市労働者に非人間的な未来像を見出した。そのコリアにとって、たとえば演劇やページェントを行い、夜は酒場という公共圏かれはアメリカにおける酒場をヨーロッパのカフェ・ソサエティに擬えているで議論を交わす習慣を持つゲットーの移民コミュニティはまさに理想的な空間であった。
コリアにとって、移民をアメリカ化することは、アメリカを無個性で均質な人々による社会に変えてしまうことを意味した。コリアはセッルメント運動に内在化する移民のアメリカ化を次のように批判する。「多数派による自由に対して制限が加えられることなく、どのようにして各地域で自治を行い、多数の暴政を回避することができるのか」が運動の課題である、と。
このコリアの問いかけは、二つの意味での解釈が可能である。評価すべき点は、移民受入れに際して、「わたしたち」にとって当為とされることを受容させようとすることが、普遍的妥当性を仮に有していたとしても、移民側に「多数の暴政」と受け止められかねないことである。疑念を持たざるを得ない点は、「各地域で自治」を行うとコリアが述べる時、その.各地域の.各移民集団が静的であり、コリアのエキゾチズムを満足させる集団として想定されることである。そのことはまた、コリアの理想とするアメリカを構成するために、移民は異質でなくてはならないことをも意味する。移民自身は経済的上昇を求めてアメリカに来たにもかかわらず、である。
それゆえに、移民集団とア.メリカ化志向の同化論者との軋礫、また移民と排外主義者との軋礫のみならず、異質とみなされた移民集団とコリアとの間の軋礫が同時に生じることも予想できる。これらのミクロな軋礫を分節化して歴史化すること、その歴史から現代についての示唆を得ることがわたしの研究課題ということになる。
(神戸大学国際文化学研究科研究員)