ニュースレター第69号巻頭言
学会誌考 島田竜登
比較文明学会が出版する年刊誌「比較文明』の編集委員会委員長としての役割を、昨秋から受け持つことになった。現在、編集中の第34号が最初の仕事となる。それまで編集委員会の委員として何年か務めてきたこともあるし、国内外の他誌や研究叢書の編集委員や査読委員を務めてきたこともあるので、学会誌一般について若干、思うところを記しておこうと思う。もちろん、個人的な考えなので、編集委員会の見解ではないことはあらかじめ申し述べておく。
そもそも学会誌の在り方は様々である。もっとも、一般的な了解事項として、投稿論文が主体となることが基本となっているように思われる。だが、自分自身のこれまでの研究活動における投稿論文の位置づけを考えると、結構悩ましい。「比較文明』の編集の責任を果たすことができるのか、不安に思わないこともない。
まずもって告白しておこう。実は、これまで私は自ら進んで論文を学術雑誌に投稿したことはないのである。たしかに拙稿が国内外の学術雑誌に掲載されたことはこれまで多数あった。ただ、編集委員会による正式の依頼に基づく依頼原稿を書くことがほとんどなのである。もちろん、こうした依頼原稿は投稿論文には当たらない。あるいは、プロジェクトなどの関係で、投稿を迫られ、形式的に論文を投稿したこともある。しかし、それも自ら進んで執筆して、投稿したのではない。やむを得ずして執筆し、投稿したというのが実態に近く、どうしても書きたいという立派な動機をもって書き始めて投稿したことは一度もない。そもそも、書くことよりも、読むことのほうが好きなのである。
できることなら書きたくはない。というのも、自分は、いつも研究に自信がないし、不完全に思われるので、できることなら人目に触れるように論文をさらすことはしたくないという逃げ思いが先立つのである。そのため、拙稿の掲載された雑誌が出版されたのち、拙稿の抜刷を同学の先輩や友人にお送りすることさえためらわれてしまうのである。
博士号の授与の基準というものは未だ一致したものがあるわけではない。ただ、研究者として独立して研究を行う能力を身に着けているという基準は、ある程度広く受け入れられている基準の一つである。問題を発見し、その解決のために、資料やデータを収集し、分析し、新たな知見を得て、それを他者に説得力のある形で、知らしめる能力である。このプロセスを会得するために、特に日本では、大学院生の時から何度か論文を執筆し、投稿し、査読コメントを反映させて質の高い論文に仕上げるということが、博士課程教育の一環として取り入れられている。
もちろん、若手の論文の掲載先としては査読誌が推奨されている。査読誌であることは質の保証であると考えられているからである。そして今では、大学院生に限らず、この査読誌への投稿はもはや全ての層の研究者にわたって重要とみなされるようになった。大学院生であれば、何点か、査読誌掲載論文がないと博士号の授与には至らないとか、大学でのポストを得るにも、昇進するにも査読誌掲載論文の点数が重要であると考えられるようになった。
その結果、今では査読誌に掲載されるように至ることを、「勝ち取る」とか、「ゲット」するなどと呼ぶことがしばしばある。先日は、国内のある研究所が出版する査読誌が「投稿セミナー」を開催し、投稿から掲載に至るまでのプロセスを若手研究者に説明・指導するという開催案内のメイルが配信されてきた。「編集委員の先生方」が「掲載を勝ち取るための心構えや執筆のコツなど」を伝授するのだという。おそらくは、若手のために良かれと思ってこのような企画を考えたのかもしれない。しかし、「掲載を勝ち取る」という表現には、正直、違和感を禁じ得ない。そもそも、査読とは、ピアレビューのことで、同業者間での対等な立場に立った相互評価のことを意味していたのではなかったのだろうか。それが、今では編集委員や査読委員が何やら上位の立場にあり、若手が掲載をいかにして勝ち取るかが焦点となってしまったかのごときである。この私の見立ては穿った.見方のだろうか?
他誌の悪口を記すのは品性を問われかねない。そこで、「比較文明』の目指すべき方向性について私見を述べておこう。広く開かれた学会を目指す比較文明学会の学術誌である本誌は、専門性を担保しつつ、分野を超えた議論を喚起できるほどの一般性も追求しなければならないであろう。他分野横断型で時代に応じたテーマによる特集のほか、相互評価的な投稿論文を多数掲載することを目指したい。もちろん、真の意味でのピアレビュー誌をめざすのなら、若手研究者の投稿ばかりに依存するのではなく、シニアの積極的な投稿にも期待したい。まず隠より始めよといわれそうだが。
(東京大学)