ニュースレター 第84号 「研究の現場から」

シャーマニズムとヒップホップ?ー脈絡のないものに連続性を見出すということ

島村 一平

「シャーマニズムとヒップホップですか?」─ 初対面の研究者に研究テーマを伝えると、たいてい、微妙な空気が生まれる。相手の方は、この人は大丈夫だろうか、といわんばかりの当惑の笑みを浮かべるのである。

私の専門は文化人類学でフィールドはモンゴルだ。モンゴルといえば、国立民族学博物館では梅棹忠夫以来の遊牧研究の伝統がある。しかし私の研究は、その伝統から大きく逸脱している。しかもシャーマニズムとヒップホップ。一言で言ってしまうと、脈絡がなさすぎる。宗教現象と都市のサブカルチャー。時代も文脈も異なる二つを並べると、無理に接続しているように見えるのも無理はない。本稿は、その奇妙な組み合わせに至った経緯と、私自身がフィールドで経験した発見についての覚え書きである。

そもそも私は、明確な将来設計をもって研究者になったわけではない。大学卒業後はテレビ番組制作会社で働いていた。モンゴルを訪れたのも番組取材がきっかけである。学生時代には、むしろジャマイカのレゲエやアフリカのブラックミュージックに強く惹かれ、いずれはアフリカやカリブ海で音楽ドキュメンタリーを撮りたいと夢想していた。そう考えると、私の関心の奥底には、もともと「リズム」や「声」への興味があったのかもしれない。だが当時の私にとってモンゴルは偶然の出会いにすぎなかった。1995 年、会社を辞め、映像制作の延長のつもりでモンゴルに留学した。

転機は、シャーマン儀礼に立ち会ったことである。大きな皮太鼓が打ち鳴らされ、祈祷歌が反復される。歌は頭韻を踏み、音の連鎖が空間を満たしていく。映像を撮りながら、私はある種の違和感を覚えた。外側から撮影しているだけでは、何も理解できない。なぜこの音が人々の身体を震わせるのか。なぜこの語りが「精霊の声」として受け取られるのか。その文脈を知るために、私はモンゴルの大学院に進学し、さらに帰国後、総合研究大学院大学の博士課程へと進んだ。

博士論文では、モンゴル・ロシア・中国内モンゴルにまたがって居住するブリヤートのシャーマニズムを扱った。主な調査地はモンゴル国ドルノド県である。社会主義崩壊後、この地域ではシャーマニズムが劇的な「復興」を遂げていた。私はウランバートルを拠点に、草原と都市を往還する生活を続けた。草原で数か月滞在し、儀礼に参与し、語りを記録する(島村 2011)。首都に戻り、データを整理し、再び草原へ向かう。その反復のなかで、ある音の感覚が私の内側に蓄積されていった。

ドルノドの草原では、シャーマンが頭韻を踏んで精霊を召喚する歌を歌う。一方、ウランバートルでは2000年前後からヒップホップが急速に広がっていた。ラジオや街頭から流れるモンゴル語ラップもまた、巧みに頭韻を刻んでいた。私は、草原でも都市でも、同じ「韻を踏む音」の環境に身を置いていたのである。あるとき、そのことに気づいた瞬間、私のなかで二つの世界が重なった。宗教的儀礼と都市文化のあいだに、断絶ではなく連続性があるのではないか、と。

事実、そう思わせる出来事があった。2010年前後、都市部でシャーマニズムが急速に広がり、数万人規模に達したとも言われる。ある都市出身の女性シャーマンは、「オンゴド(精霊)とは姿ある存在ではなく、言葉そのものではないか」と語った。精霊の召喚歌を頭韻で唱え続けるうちに、意識していない言葉が自然にあふれ出し、儀礼後には内容を覚えていないという。かつて懐疑的だった別の男性シャーマンも、同様に「自然に出てきた言葉」に戸惑いながら、それこそが精霊の正体だと語ってくれた。

ユーラシア草原の遊牧社会には、押韻を基礎とする高度な口承文芸が存在してきた。モンゴルではトーリチと呼ばれる吟遊詩人は弦楽器を奏でながら長大な物語を歌い語る。韻は単なる装飾ではなく、記憶の技術でもあった。移動生活を営む人々にとって、本を蓄えるよりも身体に記憶することのほうが合理的である。韻律は物語を保持し、呼び起こすための記憶装置であった(オング 1991)。

しかし韻の働きは記憶にとどまらない。意味を制御するのではなく、音に身を委ねることで言葉が生成されるのである。

日常生活において人は意味を考えながら、発話する。仮にこれを「意味中心主義的な発話」と呼ぶならば、韻踏みの発話は、音を揃えることに意識を集中するので、「音声中心主義の発話」ということになるだろう。とりわけシャーマンに憑依した精霊の語りやフリースタイル・ラップでは、韻を踏むがゆえに発話の意味が壊れることも少なくない。

その一方で、普段の発話では想像もできないような言葉のつながり(コロケーション)や新しい表現が生み出されていく。つまり韻踏みは、まさに何かが憑依したかのように言葉をつむぎだしていく創造的な営為なのである。私はこうした韻の持つ性質を「韻の憑依性」と呼んでいる(島村 2021:205)。

こうしてみると、シャーマン、吟遊詩人、ラッパーは、「韻踏む詩人」として同じ系譜に置くことができる。これは、「草原の韻踏み文明」と呼べそうなものだ。それは、文字を基盤とする文明とは異なり、音声と身体を媒体とする文明的技術の系譜である。韻律は、草原遊牧社会における記憶と宗教的および芸術的な創造を支える基盤装置であった。

宗教とポップカルチャー、伝統と現代という区分は、必ずしも断絶を意味しない。フィールドで耳を澄ませば、異なる時代と領域を貫くリズムが聴こえてくる。脈絡がないように見えるもののあいだに連続性を見出すこと。それは偶然の積み重ねのなかから立ち上がった私自身の研究姿勢であり、文化人類学的な想像力の実践でもある。

シャーマニズムとヒップホップ。そのあいだを往還する私の歩みもまた、草原と都市を結ぶ韻のリズムのなかにあるのだと、いまでは感じている。

オング、W-J(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)(1991[1982])『声の文化と文字の文化』東京:藤原書店。

島村一平(2021)『ヒップホップ・モンゴリア:韻がつむぐ人類学』東京:青土社。

島村一平(2011)『増殖するシャーマン:モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ』東京:春風社。

Reichl, Karl (2018[1992]) Turkic Oral Poetry: Traditions, Forms, Poetic Structure. New York: Routledge.