追悼(梅原猛先生)

梅原猛先生のご逝去  安田喜憲

 比較文明学会の顧問をつづけてくださった梅原猛先生が、 2019 年 1 月 12日に亡くなりました。
 梅原猛先生がガンを克服されたことは皆様よくご存知だと思います(1)。私は梅原猛先生が入院されたら必ずお見舞いに行きました。でも今回の大腿骨骨折で入院された時は、なぜか病院に足を運ぶ気が起こりませんでした。そして最後のお別れは、福井県三方上中郡若狭町の千田千代和元町長に促されて、2018年12月にご自宅に伺った時でした。ご自宅でお会いした時、もう会話はできませんでした。「今年いっぱい持つかな」と思いましたが、みごとに正月を越され、お孫様たちに囲まれての大往生だったそうです。享年93歳でした。奥様のふさ様、お子様のひまり様、賢一郎様をはじめ梅原猛先生をあの世に見送ってくださったご家族の皆様に厚くお礼申し上げます。
 そして梅原猛先生、本当にご苦労さまでした。梅原猛先生の一生は、最後の最後まで弱き人の幸せを考える利他の一生だったと思います。それは亡父が遺言のように私に語ったことでもあります(2)。
 もう 30年以上も前、1987 年12月のことです。当時、広島大学総合科学部地理教室には電子顕微鏡がなく、地学教室で電子顕微鏡を借りていた時のことでした。女性の秘書が「梅原猛先生から電話ですよ」と言ってきたのです。「え っ!梅原猛先生から」と私は驚きました。電話口に出ると独特のしわがれた声が飛んできました。「君をうちの助教授に取りたいと思うのだがどうかね」とおっしゃったのです。私は国際日本文化研究センターが1987年にできたことは知 っていましたし、できることならそこに行きたいなとも思 っていました。梅原猛先生からは「いろいろ人事をやったけど、即座に行きますと言ったのはお前ともう一人だけだ ったよ。そういう時は、一晩考えますと言いなさい」と後日言われました。広島大学総合科学部の学部長殺人事件が起こり、犯人が同僚の物理学の助手だった事件は、1987年10月の段階で決着していましたが、一刻も早く広島を抜け出したいと思っていた私の気持ちが、そこに出ていたのでしょう。そして国際日本文化研究センターの助教授になり、私の人生は花開いたのです。「ラクダからライオンになったのです」(3)。これはフリードリッヒ・ニーチェの言葉ですが、それも梅原猛先生から教えられました。
 京都の国際日本文化研究センターに来てからは、梅原猛先生と多くの場所(例えばトルコ・ギリシャ・長江流域・エジプト・バリ島など)に行きました。バリ島では朝早く起きて梅原猛先生と話し合っていたら「わしがめざしていたものは、最終的に芸術だったかもしれないな」と言われました。
 梅原猛先生は縄文に早くから注目されていました。「縄文文明」(4)と言われたのも梅原猛先生が最初でしょう。私たちが縄文の研究を始めたころ、まだ縄文は遅れた野蛮な文化だったという意見が考古学会の中では主流派だったのです。青森県三内丸山遺跡の調査(5)の帰り道、飛行機の隣の座席で、窓の外をくいいるように見つめられていた梅原猛先生が「こういう風土と文化があるから日本は守られているのだな」とおっしゃったことが忘れられません。
 梅原猛先生は有明海の締め切りの時「わしの長靴の前にムツゴロウが出てきて、わしに助けてくれと言っているように思えた」と言っておられました。これが梅原猛先生の生きざまでした。
 梅原猛先生には本当にお世話になりました。私が梅原猛先生のためになし得たことは、静岡県の日本平山頂に中曽根康弘元総理と梅原猛先生の石碑を造ることに参加したくらいのことです。石碑には「草木国土悉皆成仏 国土は富士なり」の文字(6)が梅原猛先生の直筆で書かれました。石碑の間からは富士山が美しく見えます。私は「はじめて親孝行したな」と思いました。「日本平の山頂に梅原猛先生の石碑を建てよう」という発想をしてくださった川勝平太静岡県知事に深く感謝しました。石碑の除幕式は2015年6月22 日に執り行われました。2018 年 11 月 3 日に石碑と富士山を望むように静岡県と静岡市の合同で、日本平の山頂に作った「夢テラス」が開館しました。すると、開館 2 か月で 30 万人を突破したのです(静岡新聞、2019)(7)。私たちは1年かけて30万人の入館者を予想していたので、これには驚きました。やっと静岡県民も川勝平太知事の「文化力の拠点」の意味が分かりはじめたのでしょうか。
 梅原猛先生に言われて京都から静岡に来た私でしたが、その役割もぼちぼち終わりでしょう。第36回比較文明学会大会も静岡で開催することができました。
 梅原猛先生、どうか富士山が美しく見える静岡県の日本平の山頂から、 日本の行く末をこれからも見守ってください。

引用文献および注
(1) 梅原猛『三度目のガンよ、来るならごゆるりと』光文社、 2001 年
(2) 安田喜憲(梅原猛;安田文明論の集大成)『環境文明論─ 新たな世界史像』論創社、2016 年
(3) 安田喜憲『環境考古学への道』ミネルヴァ書房、2013 年、 133 頁に記載
(4) 梅原猛・中上健次(対談)『君は弥生人か縄文人か─梅原日本学講義』集英社文庫、1994 年
(5) 梅原猛・安田喜憲編『縄文文明の発見─驚異の三内丸山遺跡』PHP研究所、1995 年
(6) 梅原猛『三人の祖師』梅原猛著作集9、小学館、2002 年(7)『静岡新聞』2019 年 1 月 16 日朝刊

(国際日本文化研究センター名誉教授)