追悼(片倉もとこ先生)

ある日、突然、砂粒に 河田尚子

   「正月に届いた遺言状」。これは、もとこ先生の最後の著書『旅だちの記』の中の一節ではありません。昭和57年、前の年に国立民族学博物館の教授に就任され、研究者として脂が乗り切った時代に、産経新聞に4回にわたって連載されたエッセイのタイトルなのです。

 「わたしの子どもたちは母親の死を知ってしまうでしょう。わるいけれど、悲しみはひっそりとためておいてもらいたい。そして、みんなには『母はまた砂漠に出かけました。こんどはすこし長びくそうです』という手紙を出してもらえればとお願いしてあるのです。もっとも、わたしが今のうちにそういう手紙も用意しておけばよいのかもしれませんが、ちょっとできそうにありません。わたしは、できれば砂丘のかげで、かわいいさそりとたわむれながら、ある日突然砂粒になれたらと思っているからです。」

 もとこ先生からこのエッセイの原稿を渡されて読ませていただいた私は、当時、まだ大学院生。もとこ先生のもとで勉強させていただきながら、お仕事を手伝い始めたばかりのことでした。正月そうそう、遺言状なんて縁起でもないなあ、と思いつつ読んで見ると、この時代に生きる母親として、人類の未来のために子どもたちに言い残しておきたいことがある、と話はつながっていきます。高度成長期からバブルへと向かっていこうとする、言わば「行け行け」状態の日本社会に対して、「一致団結して邁進すると共倒れになる危険性が大きい」と、一人一人ばらばらに生きるすべをもつ沙漠の遊牧民に思いをはせ、「文明は進歩の思想とつながっている。しかし前進するばかりがいいことなのか、文明の突き進む彼方にときめきをおぼえるけれど」と自戒しつつ、イラン・イスラーム革命を「西欧的文明に歯止めをかける実験」と評価し、「ものを持ちすぎない」「人にも物にも執着しすぎない、自由自在な自分を確保しておくこと」という身軽なのどやかさを提案されています。

 その当時は、「ああ、遺言状というのは、こういうことを言うための前置きだったのか。先生、エッセイを書くのがうまいなあ」と単純に受け止め、「遺言」という言葉の重さを考えてみることはしませんでした。しかし、このエッセイに書かれていることは、その後の先生のご研究の土台となる考え方だったのです。その後、冷戦終結、湾岸戦争、バブル崩壊、911テロ事件、東日本大震災などなど、世界も日本も激しく揺らいできたけれども、先生のこの土台が揺らぐことは一度もなかった。むしろその正しさが、ますます明らかになってきたような気がいたします。

 イラン・イラク戦争のさなか、灯火管制のテヘランで、「夜は夜らしく、久しぶりに人間に戻ったよう」とロウソクの灯を楽しむ。テレビも冷蔵庫も電気洗濯機もないアラビアの沙漠で、「世界一の石油埋蔵量を持つところで省エネ」と言いつつ、輸入に頼るしかない石油をじゃぶじゃぶと使う日本に思いをはせる。そんな先生の姿勢が変わることはありませんでした。文明のぶどまりを考えなければ、と警鐘をならすだけでなく、アラビア語のラーハを日本語にうつした「ゆとろぎ」(ゆとり+くつろぎ−りくつ)という言葉を生み出し、ゆったりと生活を楽しむことを提唱してこられました。「一人で生きること」「もたないこと」というポリシーは、30 年後に書かれた『旅だちの記』の中にもつらぬかれています。

 福島の原子力発電所の事故を経てなお、便利な生活、物質的に豊かな生活を追い求める日本人(私も含めて)を、先生は空の上からどのようにごらんになっていらっしゃるでしょうか。それとも、「あとはあなたがたにおまかせします」と、沙漠の中で自由に風とともに飛んでいらっしゃるでしょうか。

(元 片倉もとこ秘書、国立民族学博物館・国際日本文化研究センター)

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