ニュースレター第55号「研究の現場から」

死と平和と雇用(シゴト) ─ 沖縄の遺骨収集の現在  佐藤壮広

    これまで私は、死者の「死」が制度や社会システムの中に隠ぺいや回収されることなく、死者が「いる」という感覚、あるいは「いた」という記憶をもとにして、それらの感覚や記憶を手放さずに営まれる儀礼や日常生活の諸相について、沖縄社会をフィールドとして探ってきた。見聞・考察してきたのは、例えば戦死者をめぐる死者慣行(追悼・慰霊の儀礼や式典)や、平和構築のための集会や運動および祈願の現場で、何が語られどんな表現が試みられてきたかという点である。現在も、毎年6月23日「慰霊の日」(日本軍の組織的戦闘が終わった日とされ、沖縄県の条例で戦没者を悼む特別な日として制定された。)前後に開催される公的な追悼・慰霊式典、平和の礎いしじや各団体の慰霊塔をめぐる人々の動き、そして死者の魂を扱う沖縄の民間巫者「ユタ」の儀礼などについて、調査研究を続けている。

 人類学は個別社会のフィールドワークを通し、既成の概念を問う作業をやってきた。個別文化の「死」を問い、それを比較研究へと開けば死生観の人類学になる。平和についての人類学的研究も、平和学や政治学、心理学、社会学ほかの諸アプローチと領域横断的に協同することで、より豊かな成果を出していくことができる。だが、死も平和も、いざそれを定義しようとすると、ことは思うほどに容易ではない。したがって、例えば戦死者の死をめぐっては、目に見えるものとして、遺骨およびその処理の動向を追いながら研究をする必要も出てくる。

 1987年に米軍から返還された、那覇市旧天久(あめく)地区。1990年前後からここには工事用の重機が入り、土を掘り起こ

しては幹線道路や宅地のための土地造成が行われ、大型ショッピングモールやホテル、学校や博物館などの施設が次々と建設され、現在に至る。沖縄戦当時この地区は、連合軍が「シュガーローフ」および「ハーフムーン」と呼んだ高台であり、日米合わせて5000人近い死者が出た激戦地でもある。当然、土の中には不発弾、そして遺骨や遺留品が埋まっている。死者慣行が生活に深く根付いている沖縄社会では、先祖の霊や遺骨は丁重に扱われてきた。しかし、土地開発の現場から出る骨については、身元や死亡状況も明確でないため、工事現場の人間も行政担当者もそれらの扱いに困る。そこに登場してきたのが、「ガマフヤー(「洞窟を掘る人」の意)」という遺骨収集ボランティア団体である。この団体の具志堅隆松代表によれば、「遺骨にも人格があり、気持があり、その帰りを待つ家族がいる」という。具志堅氏らは、出てきた遺骨の土を刷毛や筆などで丁寧に取り払い、また遺留品と当時の記録文書を照合して死者を特定し、可能な限り遺族を見つけ出そうと活動を続けてきた。2009年秋には、厚生労働省、沖縄県、那覇市にはたらきかけ、遺骨収集を期限付きの公共事業とすることに成功した。ホームレスや生活保護の受給者らの就労支援となる、国の「緊急雇用創出事業」として認可されたのである。

 具志堅氏によれば、「仕事がなくて沈んでいた人が、骨を拾い、骨と向きあいながら作業する中で、自身の生き方をあらためて見つめなおすこともある」という。那覇市真嘉比地区で現在も進んでいる土地造成現場では、掘り起こされる土の中から、指や足の部位の遺骨が出てくる。具志堅氏は、盛られた土の表面に出ている遺骨がわかるように、そこに小さな赤い旗で印を付け、その行く末を見守り続ける。現代の沖縄で、66年前に激しい戦いの中で死んでいった人間(の骨)が、いま収入もなく生きることにも辛さを感じる人間を支えている。遺骨収集と雇用問題が、このように沖縄社会でひとつの結節点を見せる。こうした現場から、あらためて私は沖縄における死と平和(な暮らし)というテーマを探究している。 

(立教大学社会学部・非常勤講師)

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