ニュースレター第53号「研究の現場から」

世界システム論を脱思考する 山下 範久

 私の研究の出発点は世界システム論である。周知のとおり、世界システム論は、1970年代にイマニュエル・ウォーラーステインが提唱したマクロ歴史社会学のアプローチである。今年80歳になる彼は依然壮健で講演などに飛び回っているが、彼の理論構築の歩みを振り返れば1989年が最大の分水嶺である。同年は彼の主著『近代世界システム』の第三巻が刊行された年である。そして当初全四巻が予告されていた同書の続巻は、いまもって出ていない。つまり1989年は『近代世界システム』のプロジェクトの挫折の年である。
 そもそも『近代世界システム』の第一巻では、全四巻の構成は以下のように予告されていた。すなわち、第一巻では1450〜1640年の「長い16世紀」、第二巻では1789/1815年まで、第三巻では1914/17年まで、そして第四巻では現代(といっても1970年代の「現代」であるが)までを描くというものであった。しかし実際に刊行された第二巻は1600〜1750年しかカバーしておらず、第三巻も1730〜1840年代しかカバーしていない。つまり最初の計画に照らせば、『近代世界システム』のプロジェクトは、第三巻を書き終えて挫折したのではなく、第三巻を書き始めようとして挫折したことになる。
 実際のところ、当初計画の第二巻と第三巻のあいだには大きな飛躍がある。第三巻以降の近代世界システムはグローバルな世界システムであるが、第二巻までの近代世界システムは実際にはヨーロッパ世界= 経済だからだ。第二巻と第三巻のあいだには、近世から近代へ、リージョナルなシステムからグローバルなシステムへの変容がある。ウォーラーステインの挫折は、彼の理論体系の土台が、この変容を射程に入れていなかったことに根本的な原因がある。東西冷戦の時代、南北問題の構造の基底性を指摘することが発見的であった1970年代の世界システムが、たまたま「長い16世紀」にヨーロッパに成立し
た新しい垂直的分業体制と同じように見えたがために近世のヨーロッパシステムと近代のグローバルシステムとが短絡されたのである。
 私の研究の出発点としての世界システム論とは、正確にはこの挫折のことである。2003年の拙著『世界システム論で読み解く日本』は、『近代世界システム』の第一巻と第二巻部分を、ヨーロッパ規模の議論からグローバルなパースペクティヴに差し替えて、この挫折の克服を目指す序論的な試みであった。
 尤もウォーラーステイン自身、自らの初期の理論枠組みの限界に気がついていなかったわけではない。89年以降の彼は、19世紀以降の世界システムに新たに析出したジオカルチュア、すなわち社会学で言う「再帰的近代」の分析に関心をシフトさせた。彼は自身のジオカルチュア論をあくまで当初の近代世界システムの概念体系のなかに位置づけようとしているが、再帰的近代の問題系は、必ずしも資本主義的世界= 経済の概念を前提としない。
 2008年の拙著『現代帝国論』は、この問題意識を一部共有しつつ、再帰的近代を超長期的な歴史のなかで再定位しようとしたものでもある。そこから私が再度注目しているのが、『近代世界システム』の第三巻である。同書は、上に述べた意味で失敗作ではあるが、駄作ではない。既存の世界システム論の限界をぎりぎりまで追求した末の敗戦録である。
 同書を構成する四つの章は、それぞれイギリスのヘゲモニー、産業革命と市民革命、非ヨーロッパ世界の包摂、南北アメリカにおける独立革命を扱っている。彼の議論では、そのいずれもが近代世界システムを対象化する視点の内生化(つまり近代世界システムにおける再帰的近代の成立)という論点に還元されているが、近代世界システムの枠組みを外して考えることで、ウォーラーステインが乗り越えそこなった(というか対象化しそこなった)第二巻と第三巻とのあいだのギャップを再定位でき
るのではないか。近代世界システムという枠組みを棚上げにして、むしろ『近代世界システム』第三巻の四つのテーマのほうから逆照射するかたちで、再帰的近代が世界史のなかで意味する断絶と連続とを捉えなおそう。これが私の目論見である。
 かくて私はいま『近代世界システム』の第三巻を書きなおそうとしている。おそらくそれを通じて、私は最終的に「近代世界システム」という概念を葬ることになるだろう。しかしそうすることによってのみ、世界システム論のスピリットは再生されうると私は考えている。
                                                       (立命館大学教授)

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