ニュースレター第51号「研究の現場から」

近年の宗教学の研究状況と比較文明学 宮嶋俊一

   宗教が文明の重要な一要素であることは間違いなく、それゆえに宗教学は比較文明学に様々な貢献をなし得ると考えている。そこで本稿では宗教学の近年の状況について簡単な報告をして、その可能性を考えてみたい。

 近年、宗教研究の領域では、宗教概念の再考が進められてきた(例えば、ジョナサン・スミス、拙訳「宗教」(マーク・C・テイラー編、奥山倫明監訳『宗教学必須用語22』刀水書房、2008年所収)や、鶴岡賀雄・島薗進編著『〈宗教〉再考』ぺりかん社、2003年を参照)。これは、他の学問領域においても進められている近代的学知の捉え直しの流れに棹さすものだが、その議論を簡単にまとめると次のようになる。今日我々が用いている「宗教」という見方が成立するためには、他者との出会いが不可欠であった。例えば、宗教=キリスト教であった中世ヨーロッパ世界で「religio(宗教)」という語が含意していたものは、今日の我々が考える宗教とは異なっていた。では今日的な宗教概念はいかにして生まれたのか。大航海時代以降、宣教師や旅行家がいわゆる「未開」人と出会い、彼らに関するデータが蓄積されていく。「未開」人は当初、宗教=キリスト教のことを知らない野蛮人とされていたが、徐々にその見方が変化していく。彼らは、キリスト教のことも、(キリスト教の)神のことも知らない。だが、キリスト教に「似た」ことをしていて、神に「似た」何かを崇拝しているようだ、と。すなわち、西欧人が自分たちと「似た」何かを「未開」人たちの中に見出したことで、宗教はいわば「発見」されたのである。もちろん、それに加えて、啓蒙主義思想の普及も大きな役割を果たした。キリスト教的な価値観・考え方が相対化されたことで、諸宗教という見方が生まれてきた。

 ところが、ポストコロニアル的状況の中で、宗教という概念が西洋近代的な価値観の産物であることが批判的に指摘されるようになる。「未開」人は別に宗教を信じたり、行ったりしていたのではない。近代西欧人によって、彼らの人間観や世界観、生活習慣に対し、外から「宗教」というレッテルを貼ったに過ぎないのだ、と。このような議論は宗教なるものの自明性に疑いを投げかけるものだが、比較文明学において宗教について論じる際に我々自身が属しているアカデミズムの「文明」性を批判的に捉え返す契機ともなるだろう。

 ただし、このような宗教概念批判がラディカルに展開されていくと、宗教という概念そのものが無効であるとすら言われてしまう。近年マスメディアや医療・介護などの領域のみならずアカデミズムにおいても「宗教」ではないが宗教的であるような現象を「スピリチュアリティ」と呼ぶことが増えたが、その背景にはこうした宗教概念批判の影響も存在していると言えよう。

 こうした一連の動きに対し、宗教の概念規定などといった面倒な問題にこだわることよりも、むしろアクチュアルな問題に積極的に関わっていくことが重要だという主張もある。とりわけ、9.11の同時多発テロ事件以降、世界各地で生じている宗教・民族紛争に対して、宗教研究はどのように役立つのかといった問いを研究者が無視することは困難な状況となった。2005年に東京で開かれた世界宗教学宗教史会議(IAHR)のメインテーマは「宗教—相克と平和」であったが、宗教学者の島薗進は、この会議で現代宗教学が社会的政治的諸問題に積極的に応じようとする臨床的な学としての性格を強めていることが明らかとなったと言う(島薗進、ヘリー・テル=ハール、鶴岡賀雄編『宗教—相克と平和〈国際宗教学宗教史会議東京大会(IAHR 2005)の討議〉』2008年、秋山書店)。すなわち、教典や古典的な思想文献の研究に基づいて宗教的価値の深みの洞察を目指すのが宗教研究であり、社会や政治の現実的問題と距離をとってこそそうした研究が可能になるという考えが一方に根強く存在するが、他方この大会を通じて宗教研究は現代世界の実践的な諸問題の解明に不可欠のものであるという見方が強まった、と述べるのである。

 また、この大会において、対話であるとか環境問題であるとか、宗教の社会貢献とかいうような、宗教教団の実践者にとって意義が大きいと思われるような論題が多いが、これは客観的な研究を目指してきたここ20年ほどの宗教研究の動向に反するのではないか、という意見があった一方で、宗教に関わって社会が問いかけている諸問題に対して、主体的・信仰的な立場から教典や宗教思想を読み込んで解釈学的に取り組もうが、あるいは観察者の姿勢をとって特定宗教の外からその特徴をとらえようと努め、科学的な諸手段を駆使して取り組もうが、その姿勢の相違自体に重大な意義を付与する必要は必ずしもない、「問いかけられている問題に応答する実践的な関心こそが重要であり、方法論の原理的な対立にこだわり続けることがそれほど大きな意義をもつとは思われない」という主張もあった。たとえば、「キリスト教とイスラームの間の相克と平和の歴史を考察するにせよ、環境問題や生命倫理問題に対する宗教的思考のさまざまな応じ方を論ずるにせよ、問いかけられている問題に応答する実践的な関心こそが重要であり、方法論の原理的な対立にこだわり続けることがそれほど大きな意義をもつとは思われない」ということである(同書「はじめに」より)。

 宗教現象を研究対象として扱う上で、このようなジレンマは避けられない。個人の価値観や生き方を根底から基礎づけている宗教という現象を扱うに際して、研究者が完全に価値中立的な立場に立つことはできない反面、ある特定の立場を他者に押しつけることもできない。「立場はどうであれ実践的な関心が重要」という主張に一方では同意するが、他方で自らの主張の根拠を特定の宗教伝統の教義だけで基礎づけ、その結果閉鎖的な主張同士が対立したまま議論が平行線をたどり続けるような状況は避けるべきであると考える。宗教学にはこういった問題に関する議論の蓄積が存在しており、比較文明学に対してもこうした公共的な議論空間の構築のためにささやかな貢献ができるのではないかと考えている。

(大正大学・非常勤講師)

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