ニュースレター第47号巻頭言

法則と自由  川窪 啓資

 私たちは親先祖から精神的、肉体的遺伝を享け、出生後の家風、教育、環境などの影響によって性格や運命が形成されていく。俗に、良い星の下に生まれたとか、「親の因果が子に報う」などと言われている。しかし、これとて絶対的なものではない。司馬遷の『史記』を読んでみると、古代中国の聖帝王である堯の子供は丹朱といったが、不肖であった。丹朱は人望なく、舜は位を遠慮したけれども、結局舜が天子の位を踐んだ。

 舜の父は頑な人であったが、舜は親孝行であった。舜は家庭生活においても社会生活においても立派であった。ところが、舜の子供商均も亦不肖であった。そこで、治水に功のあった禹に天子の位をつけた。禹も舜の子の商均に帝位を譲ったが、諸侯は禹に帰服したので、結局禹が天子の位についた。禹は治水の工事のため、「外に居ること十三年、家門を過ぐれども、敢えて入らず」という努力を続けたためであったろうか、禹の子啓は賢明であったので、啓が天子の位についた。これが夏后帝啓である。かくして、世襲制の夏王朝が続くことになる。その後、十六代子孫がまがりなりにも続いたが、十七代桀王のとき、不徳が極まった。そこで、殷の湯が桀王を放った。そして、殷王朝を創めた。これが、中国最初の革命である。「放った」というのは、追放したという意味で、桀を殺したというわけではない。この殷王朝も、紂王のとき、暴虐の行いが激しくなり、ついに周の武王は殷の紂王を伐った。この場合は「放つ」と違って、実際の紂王の頭を斬って大白旗の先に掲げたのであって、暴力の程度が増している。「放伐」によって中国で覇道の時代が始まり、その後帝道や王道は絶えた。今私は簡単に『史記』の五帝本記第一から夏本記第二、殷本記第三、周本記第四までを要約してきたが、その後の中国史の原型をなしていることがわかる。すなわち、易姓革命である。自分が悪い先例を始めたので、後世の者がそれに習わないようにと湯王は臣下に「仲の誥」(但し、これは偽書だというが)を作らせたが、それは無効であった。

 とにかく、私たちは悪い原因が過去にあると「暗い必然」(a dark necessity) と諦め、「黒い花は咲くにまかせておくがよい」と投げやりになるのだ。これは、十九世紀のアメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの名作『緋文字』の一節からとったが、「真実たれ、真実たれ、真実たれ」と三度叫ぶ人生への痛切なる教訓と、「絶えず燃えさかる、影よりもなお暗い一点の光によってのみ際立ち、かつ救われているのである——黒地に、赤の文字A」という墓碑銘で終わるこの物語は、暗い必然に抗して苦闘した一人の女性の物語である。

 法則は人間にとって、縛る法則になるときもあるが、人間の主体的な態度によって法則を活用する時、人間を助ける法則にもなる。トインビーの文明論においても、文明の成長する大きな機縁になるのは、「自己決定力」(“self-determination,” A Study of History, Illustrated, p. 127)である。文明の解体期になると、「漂流意識」(“the sense of drift,” A Study of History, vol. V. 412-431) を持つようになる。大海に舵のない船で潮まかせ、風まかせで漂っているような意識である。自分で自分の運命を切り開くという積極性はここにはない。トインビーは文明の解体について、原書で712ページを書き、『完訳歴史の研究』では、第十巻から第十三巻まで四巻を費やし、最も興味深く読めるところである。解体とは、第一に社会体が分裂すること、第二に魂における分裂が起こり、それらは、1.対立する行動、感情、生活様式、2.放縦と自制、3.脱落と殉教、4.(先述の)漂流意識、5.罪悪意識、6.混淆意識などである。文明においても、人間個人においても、解体を避けるには人格の完成を図らなければならないことがわかる。

 私は、2007年6月13日~17日、カリフォルニア州のモンテレーで開催された国際比較文明学会に参加したが、新会長タゴゥスキー(Andrew Targowski西ミシガン大学教授)の下で「世界的な相補的平和文明の方へ」“Moving toward a World wide Complementary Peaceful Civilization”という運動を2009年のカラマズー大会に向かって準備していくことが決まった。この理念の元はマッシユー・メルコ元会長のPeace in Our Time にある。単なる共生ではなく平和を享受している文明はそうでない文明と平和の果実を頒かち合おうというものである。世界の平和のために学会も積極的に力を尽す責任があるというパラダイム・シフトを起こす試みである。

                                                       (本会国際委員会委員長 麗澤大学比較文明文化研究センター長)

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