追悼(米山俊直先生)

○米山俊直さんを偲んで 伊東俊太郎

 去る3月9日、親愛なる米山さんが亡くなられました。痛恨の念に堪えません。昨年(平成17年)の7月1日から3日にかけて麗澤大学で行われた比較文明文化研究センターの開設十周年国際シンポジウムにもご出席くださり、レセプションでご挨拶を頂きましたが、痩身の米山さんがいっそうやせてみえ、心配してお尋ねすると「胃癌である」とおっしゃって、早々とお帰りになったのが今も想い出されます。

 研究センターの客員教授として、創立以来、節目節目の重要なとき、いつも貴重なご協力をいただき、感謝の気持ちで一杯です。米山さんととくに親しくなったのは昭和57年(1982)、ワシントンのウッドロー・ウィルソン研究センターでの研究会でご一緒になってからだと思います。その翌年の比較文明学会の創立に当っては、早速関西側を代表して、梅棹忠夫先生と緊密な連繋を保ちながら、大きな役割を果して下さいました。比較文明学会が東西の知識人を打って一丸とした活力ある学会であるのは、この米山さんの絶えざる支えがあったればこそです。

 米山さんはアフリカと日本をはじめ、文化のさまざまな現象に広く関心をもち、深い独創的な研究をなしとげられましたが、またすべてを包み込む温かい心と頼もしい男気とを併せもつ、類い稀れな人格でした。今あらためて、その損失の大きさに歯噛みせざるを得ません。

(東京大学名誉教授・比較文明学会名誉会長)

○真のリベラリスト 吉澤五郎

 敬愛する米山俊直先生が急逝された3月9日、私は突如豪雨に見舞われたヨルダンの古代遺跡ジェラシュにいた。あたかも天の悲しみを告げるかのような暗雲の光景が、いまも深く脳裏をしめる。

 米山先生との「最初の対話」は、比較文明学会の発足(1983年)を前にして発起人の依頼をしたときであった。早速、第1期の理事として参画され、さらに第2回の研究例会では「文化人類学から見た比較文明」と題して発表された。いわゆる、「人間の研究」として両者の知的共働性を説かれたものである。他ならぬH・スチュアートに連なる米山先生の慧眼である。

 とくに個人的な追憶として、放送大学のテレビ専門科目「比較文明の社会学」では、先生共々に主任講師を務めさせていただいた。また「講座・比較文明」の第2巻をなす『比較文明における歴史と地域』は、先生との共編によって刊行された。いずれも、米山先生の創意に満ちた卓抜な構想と行動力の賜物である。ご遺著『私の比較文明論』(2002年)は、文明の危機に遭遇する人間と学問への警鐘でもあった。私なりの拙い「書評」を喜んで下さった昨秋の出会いが、思いもかけない「最後の対話」となった。

 「真のリベラリスト」米山先生のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

(前比較文明学会会長、麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授)

○米山先生のこと 村瀬智

 「父は、ほんとうに幸せな人生を生きた人でした。Happy go Luckyという表現がありますが、自分の好きなことを、楽しみながら、一生懸命に夢中でやってきたら、自然にそのようなことになっていたという、そんなラッキーな人生でした」。お別れの会で、一人娘のリサさんの追悼のことばを聞きながら、私は40年前の米山先生との出会いを思い出していた。

  経済学部の4回生だった私は、文学部の米山先生の授業を履修登録もせずに聴講していた。いつもワイシャツを腕まくりし、熱っぽく語る先生の授業は、新鮮で魅力的だった。

 人類が直立二足歩行を獲得したのは、現在では700万年前にまでさかのぼるが、当時は100万年前といわれていた。ある日の授業で、「約1万年前、人類は植物の栽培化と動物の家畜化に成功し、文明の時代をむかえた。人類の歴史100万年を、2時間の映画に見立てると、最後の72秒が文明の時代である」という話を聞いた。そうすると、私の人生はこの映画では最後の半秒もないではないかと、目からウロコが落ちた。せっかくこの世に一瞬の生をうけたのだから、死ぬときには「ああ、おもしろかった」と言いたいものだと思った。

 私は米山先生に導かれて文化人類学や比較文明学の魅力を知った。そして、この人生の達人から人生を学んだことを感謝したいと思う。

(大手前大学教授)

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