ニュースレター第68号「研究の現場から」

「山形国際ドキュメンタリー映画祭2017」報告 宮嶋俊一

 隔年で開催され、今年で第15回目を迎える「山形国際ドキュメンタリー映画祭2017」が、10月5日(木)一12日(木)、山形市で開催された。当学会の本年度学術大会のテーマ「暴力と文明平和な世界のために」と共鳴する作品も多数上映されたため、本欄をお借りしてそうした作品のいくつかを紹介していきたい。
 「インターナショナル・コンペティション」では、世界中から応募のあった1,146本から厳選された、バラエティに富む15作品が紹介された。国際色の豊かさもさることながら、フレデリック・ワイズマンや原一男などの大ベテランから、我妻和樹のような若手まで、世代的にも幅広い映像作家の作品がノミネートされていたことが印象的であった。
 ニューヨーク公共図書館で行われているさまざまな取り組みや、そこに関わる多様な人々の様子を描き出したワイズマンの「エクス・リブリスニューヨーク公共図書館』、そしてまたアスベスト工場の元労働者や家族、工場周辺の住民らが、肺ガンや中皮腫といったアスベスト疾患の責任を求めて国を相手に起こした国家賠償訴訟を記録した原の「ニッポン国VS泉南石綿村』、両作品に共通するテーマを「民主主義」として括り出すことができるだろう。国の違い、また活動内容の違いはあるが、どちらの作品においても、民主主義を実現するための人々の取り組みが描き出されている。一方、吾妻の『願いと揺らぎ』では、東日本大震災の地震と津波によって被害を受けた宮城県南三陸町の波伝谷に暮らす人々の姿が描き出される。前作「波伝谷に生きる人々』の続編となるが、本作品は復興の様子、とりわけ伝統行事であった獅子舞の復活をめぐる人々の努力と葛藤がテーマとなる。そこに、伝統的な村社会のあり方と近代的な価値観との相克を見出すことも可能であろう。
 紛争・戦争に関わる作品もノミネートされていた。シリア人、アルフォード・タンジュール監督作品『カーキ色の記憶』は、長年、紛争に苦しめられてきた祖国シリアを題材とした作品である。ただし、本作では、爆撃によって家族を失って泣き叫んだり、流血した人々が逃げ惑ったりする様子は描き出されない。シリアで起こった紛争による被害者へのインタビューが中心であり、爆撃の映像は、ほんの一瞬、挿入されるに過ぎない。また作品中には、フィクショナルな映像も挿入されている。こうした点について監督自身に直接尋ねたが、「今、メディアでは悲惨な戦闘の様子が毎日のように報じられ、人々はそれにうんざりしている。私はあえて、そうした映像を作品から排除した」ということであった。インタビューとわずかな爆撃の映像から、私たちはそこで何が起こったのかを想像することになる。問われているのは、私たちの想像力なのだ。
 「アジア千波万波」では、アジア21作品と、招待2作品が紹介されたが、印象に残った作品をいくつか取り上げよう。陳梓桓(チャン・ジーウン)監督作品「乱世備忘−僕らの雨傘運動』は、香港の「雨傘革命」のドキュメンタリーだ。若者と警官たちとが対峙、衝突する様子や、そこに参加する若者たちの日常などがリアルに描き出されていた。原一男の作品同様、ドキュメンタリー映画の制作が、同時に運動に関わってもいる好例である。他方、アートを通じて沖縄に関わっている山城知佳子の作品、「肉屋の女』も興味深い。そこに登場するのは、米軍基地があったため開発を免れた浜に漂着した肉塊、それを解体して、バラック小屋で売る女であり、その肉に群がる男たちの姿である。フィクションと現実が交錯する中で、沖縄の今が描き出される。エリアーン・ラヘブ監督作品「そこにとどまる人々』では、シリアとの国境に近いレバノン北部で食堂を営むハイカルおじさんと、食堂を切り盛りするワイダの日常が描かれている。この作品においても、激しい戦闘は描かれない。そこにあるのは、自らの土地に暮らすことにこだわる、人間の姿である。
 今回紹介した以外にも、さまざまな特集が組まれていた。たとえば「アフリカを/から観る」では、現代アフリカとそこで生きる人々の姿が2000年代以降の20を超える作品を通して紹介された。また「政治と映画:パレスティナ・レバノン70s-80s」では、1967年の第三次中東戦争とそれに続くレバノン内戦を背景として、1970~80年代にパレスティナ・レバノンに関して制作された映像作品が紹介された。紙幅の都合で扱えなかった作品に関しては、稿を改めて紹介していきたい。
                                         (北海道大学)