ニュースレター 第81号「研究の現場から」
ウクライナ戦争とガザ危機 ─ 比較文明論の視点から
高橋 誠一郎
2013年に「信者の感情の保護に関する法律」を採択してロシア正教を優遇したロシアのプーチン大統領は、2020年には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を認める法律を成立させて独裁を強めていた。ドストエフスキーの生誕200年を迎えた2021年にドストエフスキーを「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領が翌年の 2 月に侵攻を命じたことでウクライナ危機が始まり、核戦争に至る危険性もはらみつつ現在も続いている。
この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における黙示録の重要性を明らかにしたモチューリスキーが、「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と記していたからである(1)。
むろん、一方的に侵攻したロシア側には弁護の余地はないが、比較文明論的な視点から見るとき、より複雑な深層が見えて来る。たとえば、若い頃から黙示録の問題にも注意を払いながらドストエフスキーを愛読していた作家の堀田善衞は、『至福千年』(1984)では黙示録の解釈によって他宗教や異端派への派遣をも正当化した十字軍の問題に迫っている。すなわち、1095 年に行われた第 1 回十字軍の派兵に際してローマ教皇は信者に対して、遠征に参加する者には「これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免」するとし、「遠征の途上、あるいは戦いに死せる者は、あらゆる罪を赦免」すると宣言した。そのことはイスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招き、同じような殺戮は第 2 回十字軍でも繰り返された。
さらに、東欧の世界にとってはギリシャ正教を国教とする東ローマ帝国を攻略してコンスタンティノープルを陥落させた第 4 回十字軍(1202~1204)の影響は大きく、第 2次ブルガリア帝国(1185~1396)などギリシャ正教を受け容れて繁栄していたバルカン半島のスラヴ系諸国は次々とオスマントルコ帝国の支配下に組み込まれることになった。
プーチン大統領は再選された2012年に西欧の多国籍からなるナポレオン率いる大軍に勝利した「祖国戦争」(1812)を大々的に祝っていたが、そのとき十字軍や軍事同盟であるNATOの問題を強く意識していたように思える。そのことを示唆するような危機が 2023 年の 10 月に「天井のない監獄」と呼ばれるようなガザで勃発した。
すなわち、ガザの状態やヨルダン西域での入植地の拡大などに抗議するハマスによる大規模なテロが発生するとイスラエル政権は報復としてジェノサイドと批判されるような大規模な空爆と地上での攻撃を行った。しかし、国際社会から批判されたネタニヤフ首相は自分たちの方針はアメリカに支持されていると語ったのである。
実際、イスラエルを聖書に記された聖地と考えて、資金援助や武力による入植地拡大を支援している聖書根本主義派の多くの人々は大統領選挙をも左右する力を持っており、トランプ前大統領は2017年に国際社会の強い危惧にもかかわらず、それまでの国際的な方針を一方的に転換してエルサレムをイスラエルの首都と承認していた。
しかも、G.ハルセルは『核戦争を待望する人びと ─聖書根本主義派潜入記』で、ハルマゲドンを説くこの派の半数以上の牧師たちがキリストの再臨は、旧ソ連などとの核戦争の後で起き、聖書根本主義派の信者のみが救われると考えていると指摘している(2)。
ホロコーストの被害の歴史からネタニヤフが自国を包囲しているイスラム教の国々に過剰な恐怖を抱いたとしても不思議ではないが、100万近い餓死者を出したレニングラード包囲戦で自分の兄を亡くしていたプーチンが、NATOに包囲されることに過剰な恐怖を抱いても不思議ではなく、アメリカに支援されたウクライナ危機とガザ危機は黙示録の終末論を媒介として根深いところでつながっているといえよう。
日本政府はウクライナ戦争を契機に大規模な軍備拡大とウクライナの支援に踏み切ったが、堀田善衞は 1963 年に「現代のあらゆるものは、萌芽としてドストエーフスキイにある。たとえば、原子爆弾は現代の大審問官であるかもしれない」と書いて、地球をも破滅させる威力のある原爆の発明とその使用が黙示録的な終末観をも強めた可能性を示唆していた(3)。
黙示録的な終末論による新たな世界戦争を防ぐためにも、唯一の被爆国である日本は原水爆を用いた戦争による問題の解決ではなく、外交的な解決策の確立を目指すことが重要だと思える。
注
(1) モチューリスキー、松下裕・松下恭子訳『評伝ドストエフスキー』筑摩書房、2000 年、441 頁。
(2) G.ハルセル、越智道雄訳『核戦争を待望する人びと ─聖書根本主義派潜入記』朝日新聞社、1989 年、44-56 頁。
(3) 高橋誠一郎『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』群像社、2021 年、168 頁。
(元東海大学教授)


