ニュースレター第65号巻頭言
比較文明学の徒は、激動の時代に何をなすべきか? 保坂俊司
直近のことでいえば、英国のEU 離脱の国民投票の結果には驚かされたが、同様にアメリカにおけるトランプ、サンダース現象、ISに象徴される中東地域の混乱や国際的なテロ行為、西欧諸国に押し寄せる中東、北アフリカからの難民・移民、更には、既存の世界秩序への強引ともいえる中国の挑戦等、昨今の世界秩序の変動は、規模といい、その深刻度といいかつてない様相を呈しているように思われる。
しかし、一見脈絡のないこれらの現象の背景にあるものは、近代西洋文明の制度疲労と呼びうる現象ではないかと筆者は感じている。つまり、我々が目の当たりにしている現象の背後には、過去数十年、あるいは数百年に亘り、基本とされてきた西洋近代文明の価値体系の限界が、広く意識されてきたということである。
ここでいう西洋近代文明の基本とは、世俗主義と呼ばれる知の在り方、そこから発展した人間理性中心主義の体系である。そして、それは所謂宗教世界と日常世界を分離することを基本とする知の体系である。そして、西洋近代文明は世界を席巻し、その功績は甚だ大きかったが、しかし、同時にその限界、あるいは弊害も大きくなっていた。
いずれにしても、今や我々は一種の理想形、模範としてきた西洋近代文明の在り方、いわば世俗主義文明の限界と有効性を、総合的に再検証しなければならない時代に入ったのではないか、と筆者は考えている。
筆者は宗教を研究対象とする立場から、西洋近代文明における宗教の位置づけが、現代社会の変化の状況を捉えきれなくなっていると考えてきた。そして、現在我々が直面する紛争や混乱の多くが、この点に深く関係していると考えている。
例えば、西洋近代文明形成の過程では考慮されていなかったイスラム文明の台頭が、この西洋近代文明の築き上げて来た世俗文明との間で、大きな齟齬を生じており、その齟齬が、前述の不幸な事件を引き起こす大きな要因となっている、と筆者は考えている。
というのも、イスラム文明の基本は、宗教を中心とする同心円状に形成される構造であり、西洋近代文明のような、宗教を棚上げする聖俗分離、世俗主義とは基本的に異なる構造なのである。しかも、両者はその違いに対して、互いに無頓着である。それゆえに、両者には、互いに理解するチャネルが脆弱なのである。故に、双方ともに長い、対立と協調の歴史から教訓を得ようとする発想が脆弱なのである。
故に、問題の根本解決のないままに、かたや軍事行動、かたやテロリズムという不幸な殺戮の応酬となる。両者は互いに他を非難するばかりで、より根本的な真実である双方の命に差はない、という真実から目をそらせる。そして、敵対する者の命を奪うことに正義を主張する。
筆者はこの不幸の原因の一つに、西洋近代文明の過度の合理主義的発想があると考えている(イスラムに関しては、他の機会に論じる)。その過剰なほどの宗教に対する消極的な位置づけが、その正反対ともいえるイスラム文明との間に大きな齟齬を生んでいると、筆者は考えている。
そこで、筆者は宗教を文化の一部に矮小化するいわば世俗中心の世界モデルを多少改め、二つの中心を持つ楕円状の世界モデルとすべきと考えている。そうすれば、世俗主義とイスラム主義を共に理解する思考が成立し、聖俗共存の文明パラダイムが成立する。
このパラダイムでは、宗教が政治や経済と密接に関わっているということを基本とする。そのために、宗教に無頓着、無防備な近代モデルと異なり、宗教は常に政治、経済と密接に関わるが故に、宗教が政治や経済の道具として理想化されやすく、混同されやすいという点に注意を払うことを喚起できるパラダイムモデルとなっている。
少なくとも、この21 世紀世界を理解するためのパラダイムモデルであれば、政教一元のイスラム文明も、また西洋近代型の世俗文明も同時に理解できる。
いずれにしても比較文明学会の論客であった故神川正彦先生は、「比較文明は、未来志向の学問を目指さなければならない」と仰っていた。いまこそ、比較文明に関わるものとして、この混沌の時代の海図となるような文明モデルの作成という大仕事に、チャレンジしてみるべきではないか? (中央大学)