リアリティはどこにあるのか? -「山形国際ドキュメンタリー映画祭2023」に参加して-

宮嶋俊一(北海道大学)

 比較文明学によって扱われるべき領域は時代的にも地域的にも多岐にわたるが、とりわけ、グローバルな視点から現代における諸問題に向き合おうとするなら、そのための情報収集が重要となる。断片的な情報であれば、インターネットを利用すればすぐに入手できるが、SNSなどでは(たとえそれがフェイクであっても)人目を惹くような面白い情報ばかりに注目が集まることが多く、それらには腰を据えてそれぞれの問題に向き合おうという姿勢はあまり感じられない。その意味において、ドキュメンタリー映画は、現代の文明学的な問題を考えるための格好の素材であると言える。だが、映画館で上映される機会は決して多くはなく、その意味で、ドキュメンタリー映画祭は、多くのドキュメンタリー映画作品に触れることができる貴重な機会である。

 2023年10月5日から12日にかけて、山形市内で「山形国際ドキュメンタリー映画祭2023」が開催された。これまで2年に一度開催されてきた映画祭だが、前回、2021年はオンライン開催となったため、対面での開会は4年ぶりとなる。筆者も、4年ぶりにこの映画祭に参加した。本稿は、その参加報告である。

 と言っても、大規模な国際映画祭のすべてをひとりの人間が余すことなく伝えるのは不可能である。そこで本稿では「リアリティ」というテーマを設けて、インターナショナル・コンペティション部門(以下、「コンペ部門」と略記)で上映された4作品を紹介したい。

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 ヴィタリー・マンスキー、イェウヘン・ティタレンコ監督「東部戦線」(ラトビア、ウクライナ、チェコ、アメリカ/2023)は、ウクライナの戦場を映し出した作品である。ティタレンコ氏は、友人たちとともにボランティアの救護隊員としてウクライナ東部戦線に赴く。本作は、その時の様子の記録である。

[提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭]

 私たちはいま、マスメディアやSNSを通じて、日々、ウクライナやイスラエル・ガザ地区の戦場の様子を目にしている。それらの中には、プロのジャーナリストの報告だけでなく、一般人がスマートフォンなどで撮影した映像も数多く含まれている。かつてであれば、戦場は、誰もが簡単に赴くことのできる場所ではなかった。それゆえに、戦場の映像はそれだけで貴重だった。だが、戦場の最前線の映像がSNSにアップされるや、それらが瞬時に世界中を駆け巡る時代となった。その意味で、私たちは戦場の映像に見慣れてしまったとすら言えよう。それゆえ、私たちが見ることのできない戦場の映像など存在しないのではないかと、つい思ってしまう。だが、本作を見ることで、そうはないのだということを思い知らされた。

 スクリーンに映し出されるのは、あまりにもリアルな戦場の様子である。例えば、重傷を負った兵士を移送する救急車両の中の緊迫感。負傷者の命がみるみると失われていく様は、見ていて辛くなる。あるいは、走行中に目の前を走る救急車両が地雷を踏んで爆発してしまう様子。その車両に乗車していた人々が肉片となって、跡形もなく粉々に飛び散ってしまう。かと思えば、泥の中に埋もれて、救い出すことができなくなった牛たちの姿には、やるせなさを感じさせられる。

 だが、映し出されるのは、そうした緊迫した映像ばかりではない。水辺でくつろぎながら、仲間たちと戦争について語り合ったり、一時的に帰還した兵士やその家族と食卓を囲んだりする様子は、のどかですらある。そして、そうした映像があるからこそ、戦場の厳しさがますます浮き彫りにされていく。

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 だがウクライナのリアルは、それだけではない。「東部戦線」と対照的とも言えるウクライナを映し出していたのが、マキシム・メルニク監督「三人の女たち」(ドイツ/2022)である。

[提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭]

 舞台は、ウクライナ西部、カラパチア山脈の麓にあるストゥジツヤ村。女性たちが多く暮らすこの村に、大学院の修了制作となる作品を作るため、若者たちが村を訪れる。そして、そこに暮らす三人の女性たちと共に、作品が紡がれていく。ひとりは、牛の飼育をする農家のハンナ、もうひとりは生物学者として節足動物の研究に勤しむネーリャ、三人目が郵便局員のマリーヤである。

 冒頭のシーンでハンナは撮影を厳しく拒む。ところが、時が経つにつれ、撮影のクルーとハンナは、交流を深め、信頼関係が築かれていく。その様子は、実にハートフルだ。

 ドキュメンタリー作品の中には、制作者が、あたかも観察をするかのように対象と距離を取る作品もある。制作者の介入によって、事実が歪められかねない、という意図からであろう。だが、本作は、制作者が積極的にフレームの中に入ってくる。そこで生まれるほのぼのとした交流は、観ている者の心を和ませる。

 上映後の制作者との質疑応答では、やはり戦争の影響についての質問が出た。その回答の中で、戦争にかり出される男性も増加しており、ますます村人の女性比率は高まっているということであった。山中の村とは言え、戦争の影響を逃れることはできない。だが、「東部戦線」に描かれていたような、殺伐とした世界だけがウクライナではない、ということを教えてくれる作品であった。ウクライナの現実(リアル)を多面的に知ることも大切である。

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 次に、エキエム・バルビエ、ギレム・コース、カンタン・レルグアルク共同監督「ニッツ・アイランド」(フランス/2023)を紹介したい。映画の舞台は仮想現実(VR)の世界である。映画制作のクルーはオンラインゲーム『DayZ』に参加し、その様子(ゲームの画面)がスクリーンに映し出される。まるで、ゲーム配信を見ているような気分になる。クルーは、このゲーム世界でさまざまな人物に出会う。

[提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭]

 ゲーム参加者はゲーム内でのニックネームやキャラクターを持っている。「現実」には存在し得ないであろう、特異な服をまとい奇妙な語りをする人々が次々に現れる。だが、時折「現実」が紛れ込んでくるのである。側にいる子どもが転んで泣き出してしまって席を離れたり(そうなると、画面上のキャラクターは動きを止めてしまう)、「現実」での職業について語り出したり。さらには、VRならではの無法地帯も現れ、何の抵抗もなく目の前の「人間」を銃で撃ち殺してしまったりする人物まで登場する。参加者の中には、何が現実なのかわからなくなってきたと呟く者もいる。

 ゲームばかりやっていると、リアルとVRの区別がつかなくなるという言説は、今や古典的なクリシェとなった。本作を見ていても、それが映画であることを疑うことはない。だが、そこには「現実とVRの区別がつかなくなってしまいそうになる状況」がリアルに映し出されている。それは、今まで見たことのない、斬新なリアルであると言うこともできるだろう。

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 最後に、フィクションと事実という観点から、ダミアン・マニヴェル監督「あの島」(フランス/2023)を紹介したい。

[提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭]

 作品の舞台となるのは、「あの島」と呼ばれる島である。主人公のロザは、翌日、島を離れてモントリオールへと旅立つことになっている。そして、この島で同じ時を過ごした仲間たちとのお別れパーティーが開かれる。若者たちが、走り回り、海辺でふざけあい、笑い、叫ぶ、そこに描き出された、楽しさや寂しさ、そして恋愛感情……。いかにもありがちな青春ドキュメンタリーかと思いきや、それに続いて、別の日に、別の場所で行われた、その場面を演じるためのリハーサルの様子が映し出される。そこで、登場人物たちがみな、熱心な演技指導を受けている。リハーサル? 演技指導? あの島での出来事はすべてフィクションであったのか? 作り話だったのか? だが、それにしては、あの島での若者たちは、リアルで生々しい感情を赤裸々に表出していたではないか?

 この作品を見ながら思い起こしていたのは、「恋愛リアリティショー」である。そこには一定の演出があり、ストーリーらしきものもある。けれども、それだけでなく、その場で生み出される予測不可能なリアリティを映像は捉えていく。それ自体は、インプロビゼーションとしてこれまでも知られている手法であるが、「あの島」では、あの瞬間に生じたリアルが映像に映し出されていると同時に、その制作過程におけるリアルもまた捉えられており、リアリティが幾層にも折り重なっているのだ。フィクションとも事実とも言いがたい重層的で多面的な世界がそこにある。

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 他にも紹介したい作品はたくさんあるが、スペースの都合で難しい。そこで最後に、映画祭そのものについても触れておきたい。冒頭で述べた通り、前回はオンライン開催であったため、今回は久しぶりの対面開催となった。映画館で入場を待つ列に並ぶ人たちやコーヒーを飲みながらロビーでくつろぐ人たち、ラーメン屋やそば屋で昼食をとっている人たち、みな口々に、映画の感想を言い合ったり、上映情報を交換したりしている。これは、オンライン開催では見ることができなかった光景である。

 その声に導かれるように、私たちはまた次のスクリーンへと足を運んでいく。これが映画祭のリアリティであることを実感した。もちろん、ネット配信の便利さや手軽さを否定するつもりはないが、映画館の中にあるリアリティが街全体へと拡がっていき、街全体が映画館になってしまったかのようなこの感覚を失いたくないと感じた数日間であった。