ニュースレター第45号巻頭言
芳醇なる多花性 片倉ともこ
受話器をとったら懐かしい声。比較文明学会の新しい風、阿部広報委員長からだった。世界を日本を語りあって意気投合、学会員同士のこういうおしゃべりは幸せのひとときだ。伊東時代、吉澤時代、この学会にとって画期的な遺産を残していただいた。いま染谷時代が始まるのはまた嬉しいこと。女性もふくめ、若い研究者で専門の殻から脱皮した大きな視点をもった学会員をと願う。さまざまな方向からの総合的なアプローチが、文明学にはことさら必要だ。専門的な分析的学問だけでは、地球規模の大きな問題を考察することはできない。
人間そのものが多重的複合的存在であるように、人間のつくりだす文化文明も多種多様なものの総合体である。日本文化あるいは日本文明とされるものも、世界の文化文明を豊富に受け入れ統合していく過程のなかから、新しいものが創造されてきた。新しい思想をうけいれながら、土着の思想との融合がなされていった。「いくつもの日本」といわれるような多重性がみられる。それは本学会顧問加藤周一氏が、つとに「日本文化の雑種性」と表現されているものであろう。
雑種のもつ強さは認識されながらも、「雑種」は低く見られ、「純粋」のほうが上等であるかにみられる傾向が根強く存在している。「純粋」は「雑種」を不純で汚らわしいと排除し、「過激」と結びつきやすい。「仏教原理主義」とよばれるオウムのテロ、「イスラーム原理主義」とよばれるテロ、ブッシュ・ネオコン原理主義もある。いずれも過剰な自己主張をする。
そもそもアメリカは移民によって成り立った国で、その雑種性が強みだった。1950年代末、私が留学していたころのアメリカは、雑種性ゆえの自由が存在し、世界から羨望される国であった。しかし、アメリカ的基準が世界中の人々を幸せにできるのだとする普遍主義を標榜するようになり、その過程で黒人の中の階層化もすすみ、「白人」より白人的なライスが、アメリカの意にそわない国は軍事力にものをいわせて退治する、と言い放つまでになった。ハンチントンは、国家パラダイムから抜けきれないまま「文明の衝突」を書いた。「イスラームは国ではない」という“不都合”(戦争するには!)が気づかれ、「悪の枢軸国」が指
名された。
モンゴルはイスラームを抱き込むことによって、歴史上最大の帝国をつくった。アメリカは自らのなかに、すでにイスラームを抱えてやってきたのだ。「排除」より、なんとか「共生」の方向を選ぶことが出来ないものか。モンゴルの智恵に学べないものか。
異文化の代表格イスラームは、アジア全域、カナダをふくむ北米をはじめ、南米、ヨーロッパ、オーストラリアなど、そのネットを全世界にはりめぐらし、世界総人口の2人に1人がムスリムになる日も遠くないといわれる。「脅え」ゆえか西欧は関係を悪化させてしまっているが、国家総人口の9割近く、2億人あまりのムスリムをかかえるインドネシアはじめ、世界最大多数のムスリムをかかえるアジアでは、土着文化とおだやかに共生している。ムスリムが仏教遺跡を守っている姿も、随所にみられる。北京にも清真寺院が多く、イスラーム飯店が非ムスリムの間でも人気である。日本の残留孤児たちを育てた多くは、ムスリムだった
ということも判明してきた。仏教王国タイには、バンコックにさえ172のモスクが存在している。
日本をふくむアジアは、イスラームに限らずさまざまな文化文明をけろりとのみ込みながら、その雑種性ゆえの強さを発揮してきた。「純粋日本」の研究をしているというイメージをもたれがちな日文研(国際日本文化研究センター)にも多様な研究者が集まり、イスラーム研究者もすでに迎え入れられている。新しく参入した私とはアプローチが違っているが、だからこそ面白い。日文研の雑種性をさらに強めたいと思っている。
比較文明学もアプローチは多種雑多である方がよい。「純粋志向」は、憧れのようなものをともなって私のなかにも存在するのを認めざるをえないが、純粋はひ弱であり、それゆえに過激にも走りがちである。比較文明学会にも多様な人たちが集まり雑種性、すなわち多くの花が咲く「多花性」が育成されればと願う。多花性は、さまざまな価値を認める「多価性」につながることになるであろう。
(比較文明学会前副会長 国際日本文化研究センター所長)