ニュースレター第57号「研究の現場から」
木を見て森を見ず 横山玲子
マヤ研究の先駆者のひとりに、イギリスの人類学者J.Eric.S.Thompson卿(1898-1975)がいる。マヤ暦を西暦に換算するGMT法を完成させた3人の研究者、グッドマン、マルティネス、トンプソンのトンプソンであり、今日もなおマヤ研究者たちが拠り所とするマヤ文字のカタログを作成した人物である。彼は、マヤ文字を構成する文字素の分類を試みながら、文字素と文字全体が表わす「象徴的意味」を追究した。彼にとってマヤ文字は、音価をもたないシンボルであった。ところが1950年を過ぎるころから、文字素の音価が次々と発見され、頑なにその研究成果を拒み続けたトンプソン卿は、後に、「マヤ文字解読に弊害を与えた研究者」という不名誉なレッテルを貼られることとなった。
マヤ文字を研究する一方で、トンプソン卿は、当時のマヤ研究における大きな問題を指摘している。考古学者、文献学者、民俗学者たちは、皆、それぞれの領域内に留まるばかりで、他の領域から得られる重要な情報を見ようともしない、という問題である。彼は、利用できる情報はなんでも利用した。マヤという文明そのものを理解することこそが、人類学者としての彼の目的だったからであり、彼はマヤを通して人類や文明そのものについて考究していたからである。そのため、マヤ文明の歴史、神話、信仰体系、儀礼、経済、地域間交流など、あらゆる側面について分析することを止めなかった。注目すべきことは、彼はいつも「われわれヨーロッパ的な観念」が、マヤ文明を正しく理解することの妨げにもなるのだと、考えていたことである。恐らく、どのように注意を払っても、自文化から脱却することなどできようがないのだが、とも思っていたに違いない。異文化を理解することの難しさのなかで、彼はマヤ人たちの「論理」を探り続けた。
しかし、彼を取り巻くマヤ研究の場は、彼の忠告とは逆に細分化され続け、トンプソン卿亡き後、マヤ研究を牽引し続けたMichael D.Coeは、卿の生前からそうであったように、ことあるごとにトンプソンの解釈を容赦なく批判し続けた。そして、今、彼らに学んだマヤ研究者たちの多くが、コウの論調と同じように、トンプソン卿の解釈を批判材料として用いている。トンプソン卿は、孤独に、悪者になった。卿に弁明の機会が与えられることは、もはや決してない。
かつてトンプソン卿は、イツァムナー(Itzamná)という神が、他の神々の頂点にあり、この神への崇拝は、いわば一神教にみられる崇拝の形態に似ていると解釈した。それは、マヤのエリートたちが周辺の村落も巻き込んで地域的な統合を果たそうとするときに、このような信仰形態を作り上げ、いわば文明化を図ったのだろうと考えたからである。現代の研究者たちは、このような一神教的な信仰の形態があったということに批判的である。現実に、石彫にも絵文書にも多くの神々が表現されているからである。マヤ文字で書かれた碑文のなかにも、名前の異なる多くの神々が記録されているからである。従って、マヤの人々の信仰形態は、多神教のひとつだと結論づけるのである。
昨年から大学院へ進学し、マヤのカウィール(K’awiil)神とフウナル(Huunal)神について研究している院生がいる。王権を表わすと言われているこの二柱の神々の違いがどうにも不鮮明である。そうした議論を重ねていくうち、この二柱の神々が別々のものなのか、そうではないのか、余計に分からなくなってきた。そもそも、人間が考え出すさまざまな信仰の形態は、一神教と多神教という二分法できれいに分類できるものなのだろうか、という新たな疑問に直面した。ひるがえって、トンプソン卿は、マヤのエリートたちが、イツァムナーという一柱の神だけを信仰する一神教を目指したとは、ひとことも述べていない。トンプソン卿が「一神教的な」と表現した真意はなんだったのだろう。そう思い至ったとき、「マヤ研究」という小さな研究領域から離れ、宗教学や記号学、図像学といったさまざまな学問分野へ出かけていかなくてはならなくなる。もちろん、哲学は言うまでもない。
トンプソン卿への批判はともかく、マヤ研究者たちがいつも「マヤ」に留まり続けていることがもどかしい。たまには「マヤ」から離れて、周囲を見回してみてはどうだろうか。ちょっと振り向けば、遠くから「マヤ」を眺めることも可能である。その作業は決してマヤ研究から離れることではない。むしろ、マヤ研究のために、豊かな滋養を与えてくれるであろう。
(東海大学)