ニュースレター第76号巻頭言

グローバル文明を超える人類の普遍的生存維持に向けて

佐々木 一也

 ヨーロッパ近代文明が広く地球上を覆うようになった19世紀以降、ヨーロッパの論理的思考文化であるphilosophy(哲学)と同根の自然科学理論およびその応用である科学技術による文明がグローバルに受け容れられるようになった。だが21 世紀の現在、影が差している。この文明が人類を滅しかねないとの危機意識が高まっているからである。これに対しては国連が包括的目標としてSDGs(持続可能な開発目標)を提唱し、2030 年までにその達成を求めている。だが、これに対しては賛否両論がある。多くは賛成派だと思われるが、反対派の意見には、SDGs は特に自然環境問題に関しては現状の先送りでしかなく根本的解決にならないという主張が含まれている。私もそのように考えるひとりである。私の根拠は以下の通りである。
 SDGs の根拠となる科学理論は人類という種の利害を反映し、かつ、理論という人間知性の特性に拘束されているゆえに、自然そのものに即した根本的理解が本来的に困難だということである。
 現状の自然破壊を生み出した科学技術は、人間の物質的欲望と、知的好奇心によって生み出された科学理論に基づいている。理論が世界を説明できると考えるのは古代ギリシャに端を発する哲学の「世界のロゴスと人間のロゴスが一体である」という信念に基づく。人間がロゴスを使えば世界の秩序が理解できる、という発想である。それゆえ抽象概念を論理だけによって展開させる哲学が、それがそのまま世界の実相を捉えていると考えられてきた。自然科学もその延長上にある。現在の人類も自然科学理論による世界記述の妥当性を疑わない。
 だが、近代初期のイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561-1626)が既に言っているように、哲学は人間の知性がそれに囚われることによって誤った世界理解を与えるイドラ(偶像・虚構)の一つ「劇場のイドラ」でもある。哲学は世界観によって世界や人間のあり方を劇場のように見せる一つの虚構だからである。また、科学技術は人間の欲望と好奇心から発しているので、人間に引きつけた理解しかできないという「種のイドラ」でもある。その意味で理論は二重の意味で虚構である。実証実験によって虚構性は排除されると考えられるが、事象の総体を理論は捉えない。理論はイドラとして認識を歪めるゆえに、人間には認識できない未知の現象が含まれる可能性を排除できないからだ。だが、何かの拍子に未知の現象が認識されることがある。すると従来の理論は誤りとされ、更新されてしまう。現在の理論も更新の積み重ねの結果なのである。今後さらに更新されるだろう。それを考える時、我々は現在の理論が示す方向以外をも見る必要がある。なぜ、滅亡の危機を前にして、一つの方策のみに頼ってリスクの分散をしないのか。なぜ、エンジンをモーターに変えてでも車に拘るのか。なぜ、夜空を昼のように照らす電力が必要なのか。な
ぜ、大量の廃棄を伴う食料の偏在を生む食文化が必要なのか。なぜ、人の処理能力を超える量と速度を要する都市生活が必要なのか。現在の科学技術文明は人類の普遍的生活様式の基盤として必然性があるのか。現在の理論的処方に依存するだけで人間の欲望実現活動が維持できるという近未来劇場の物語を信じられる理由は何であろうか。
 19 世紀から始まり、科学理論とは異質な理論構成をしてきた哲学がある。それをhermeneutics (解釈学) という。この哲学の特徴は自分が劇場で物語を展開するイドラ制作者であることを自覚していることだ。絶対、永遠、普遍を主張しない。むしろ人類の棲息する各所の特殊性を重視し、そこで蓄積されてきた生活史に基づく現在の理解を目指す。人は過去から続く特殊な伝統に拘束されてしか今の自分を理解できない。伝統が違う人同士が同じものについて異なる理解をするのは必然である。いきなり共通理解が成立するのは不自然だ。科学理論が共有されても、それは生活の現場からかけ離れた架空の空間でのことでしかない。現実
の生活はそれとは別の空間に実在している。生活に根ざした共通理解は、生活空間における交流によるしかない。解釈学ではそのように考える。
 現在進行中のグローバル文明とその普遍的目標は、本当に人類全体が共有すべき目標なのだろうか。差し当たり行動が必要な現在、SDGsも起動の手がかりとしての意味はあるだろう。だが、グローバル文明も一つのイドラの産物として相対化する視点が必要である。現在の文明生活にある人類は、いわば地球表面の生物圏と自然環境にとって、際限なく侵食して増殖する凶悪化したウイルスのようなものではないか。だが、ウイルスも長い間人類をはじめ多くの生物種と共存してきた。人類も他の生物や自然環境と共存してきた。その共存を崩す科学技術を生み出す理論がイドラの一つに過ぎないことを改めて認識し、多様な生活現場に立ち返って、それぞれの伝統的共存様式からより大きな共存様式へと高めていく努力こそ、今後人類に求められるだろう。そのためには、各地域での歴史を踏まえた生活様式の確認とそれらの交流が不可欠である。我々の比較文明学の営みの重要性は増すばかりである。


(立教大学名誉教授)