ニュースレター第74号巻頭言

「人間性なき科学」と「徳なき学識」 加藤久典

社会生活を送るということは、常に他者との関わりを持つことである。この他者は身近な個人から同じ国籍を有する者、私たちが信託した政治家、そして一見直接的な関わりがないように思える世界中の人々まで含んでいる。研究者であり大学で教育を行う立場にある私は、最近よく他者との関わりについて考える。調査を行い、論文を書き、またそれらを教育現場に生かして若い学生たちと共有する活動は他者にとってどういう意味を持つのか、ということだ。
このことを深く考えると、学問とは一体この世界でどのような意味を持つのかという問いにつながってくる。学問にはそれぞれの領域と専門性があり、分析する対象も異なる。しかしながら、その学問の究極的な意味と目的は何かと考えるのだ。恩師である哲学者、矢内原伊作はかつて「専門がないのが私の専門です」と言ったことがある。これは、権威や権力に汲々とする学術界への痛烈な批判だったのでは、と研究者になった私は今思っている。
未熟な私に確たる学問の意味と目的を宣言する自信などない。ただ、研究を続けるのは、わからないことを知りたいと思い、既成事実と信じられていることに疑問を持っているからに他ならない。そして得られた知見や知識が、よりよい世界の構築に少しでも役に立てばと思いながら活動を続けている。私はインドネシアを対象地域として、宗教特にイスラームについて研究を行っている。学問的領域としては、地域研究、宗教社会学、宗教人類学などと分類することが可能だろう。だが、その領域が何であれ、研究の意思がよりよい世.界の構築への希求につながっていなければ、意味がないのではないかと感じている。
学問において何が重要なのかと考えるとき、常に思い出す言葉がある。インドのマハトマ・ガンディーが「七つの社会的罪」のうちの一つとして残した「Science without Humanity」という言葉だ。「人間性なき科学」は社会に害を加えることもあるというこの警告を学術研究者は忘れてはならないだろう。学問的権威や権力を一義的に求めていると、他者があふれるこの世界を傷つけてしまうことすらある。ダイナマイトを発明したノーベルが、自らの学問的発明が他者たる人類を苦しめる可能性があることに気づき、ノーベル賞を創設したのはよく知られたことだ。自らが携わる研究が一体他者とどう関わるのか、という問いが忘れ去られたとき学問の意義は失われ、時に社会的な罪にさえなり得るのだ。
現代の世界には、様々な問題があふれているが、イスラーム世界と非イスラーム世界の隔たりもその一つだ。相互不信に根差し、暴力主義を肯定する一部のムスリムたちが起こすテロリ.ズムは人類の脅威になっている。これまで私が関わってきた多くのムスリムは、平和と共存の意思を強く持っていた。サラフィストと呼ばれる厳格なムスリムさえも、異教徒を理由なく拒否することはなかった。しかし、テロリズムは起きた。そこで私は、テロリストはなぜテロリストになったのか、という問いを探求することでよりよい世界の構築に貢献できるのでは、と考えこの数年調査活動を行っている。
残念なことだが、これまでインドネシアでもいくつものテロリズムが起こり、実行犯が逮捕された。法律によって極刑に処せられた者もいるが、中には刑期を終えて釈放された者もいる。テロリズムにより多くの犠牲者が出た以上、殺人者としての彼らは憎むべき存在だ。彼らを社会から永遠に追放すべきだという意見もあるだろう。
しかし、テロリズムという絶対的社会悪を断罪することで終わらず、学術研究者としてつまり知を以てよりよい世界の構築に貢献したいと望む者として、ガンディーの「人間性なき科学は社会の罪である」という言葉を再び思い出すのだ。彼らの絶対的罪はしっかりと認知したうえで、「なぜテロリストになったのか」と問い、「彼らは再び社会で生活することができるのか」と冷静に考えることが私の研究の意義ではないかと思う。それは人間性の発露であるし、人類の共生に関わる問題でもある。
この世界に存在する罪を犯したテロリスト、差別される少数派と差別する多数派、信仰する宗教によって分断された人々が共生することはできるのだろうか。憎悪と傲慢、優越感と劣等感にあふれるこの世界をよりよくするためには、すべての学問が専門性を総動員して、領域や分野を超えてその可能性を探ることが必要なのではないか。その意味で、学際的な集まりである比較文明学会は大変重要だと思う。私は学術活動を続けるうえで、再びガンディーの残した七つの社会的罪を思う。その中の一つに、Knowledge without Characterという言葉もある。つまり「徳のある知」の大切さだ。それは徳を備えた人格者であるということの大切さにもつながるだろう。自戒を込めてこの言葉を覚えておこうと決意するのである。