追悼(染谷臣道先生) 

染谷先生を偲ぶ  原田憲一

 染谷先生と親しくなったきっかけは、吉澤五郎会長の時代、役員会終了後に開かれた飲み会でした。私が1981年にジャワ島で2カ月ほど地質調査したことに親近感をもたれたのでしょう。「原田さん、そうだろう」とよく同意を求められました。そのときのやんちゃな笑顔は今でも瞼に浮かんできます。
 染谷さんが提唱した、人間が自然と共生する「還流文明」という概念に、素直に同意できたのは、ある種の共通体験があったからだと思っています。
 一つは敗戦後の飢えや貧しさです。私には、幼い頃にひもじさを味わった記憶があります。小学校には何人もの欠食児童がいました。電車に乗れば傷痍軍人が物乞いをしていました。大学を卒業した1970年の秋、ベトナム戦争真っ只中の米国に留学し、同級生が大量の食べ残しと食器を丸ごとごみ箱に捨てる姿を見て、こんな罰当たりな生活様式が長く続くはずはないと憤りを感じました。当然、今の日本の便利な飽食の世界も不自然で異常に感じられます。染谷さんが、インドネシアの素朴な生活に安らぎを見出す一方で、先端技術が魔法の杖とみなされることに懐疑的だったことに頷けます。
 二つ目は、植民地支配の体験的な理解です。私には進駐軍にチョコレートをねだって母から叱られた経験があります。滞米中に海洋調査船に乗り組んでエチオピアの港に着いたとき、仲間の研究者たちが、押し寄せてくる物乞いや土産物売りの群衆にたじろぐことなく、羊の群れをかき分けるように歩く姿を見て、これが植民地支配の実態なのだなあと実感しました。染谷さんはもっとひどい事例に何度も遭遇されたのでしょう。ことあるごとに、オランダがいかにインドネシアを収奪したか、具体例をあげて厳しく批判されました。植民地主義への批判は染谷さんの心の叫びだったと思っています。
 還流文明研究会の立上げ後、染谷さんはさまざまな学問分野から知識を吸収しようとされました。メタンハイドレートの可能性や石油の無機起源説、ガイア仮説などについて、メールでやり取りしたことが懐かしく思い出されます。今頃はあの世で学会OBと例の笑顔で議論されていることでしょう。
 心からご冥福をお祈りします。

(比較文明学会元副会長・至誠館大学)