ニュースレター第61号巻頭言
人間の営為の姿として風景を見ること 赤坂信
2011 年3 月の東日本大震災以降、現代文明は岐路に立たされていると強く感じたが、3 年余たった現在、すっかり忘却した懲りない面々がいることもこの文明の特徴らしい。震災の翌年(2012)の4 月には土木史の泰斗、高橋裕氏(東京大学工学部名誉教授)を迎え、研究例会(第93 回、上智大学)で「災害と文明」というテーマで講演していただいたことがあった。とくに印象に残ったのは災害に対するわが国の抜本的対策に関する疑念だ。以下にその要点を述べる。
東日本大震災に触れ、今回起こった災害がどういうものであるかといった被害状況はすぐに報告され、そして過去の事例と比較をして災害の原因を探る。しかしここまでで、日本では抜本的な対策は出てこない。復旧の早さには、たしかに目を見張るものがあるが、将来起こりうる災害への具体的な備えについて関心が希薄に見えるのはどうしたことだろう。では、大震災を踏まえてどうしたらいいのか。重要なのは都市ないし国土レベルの土地利用計画だと指摘する。日本は臨海部の開発で栄えた国だから、京都と札幌以外の大都市はみな臨海部にある。原子力、火力も施設は臨海部に造られたが、ならば海水面の上昇にはもっと敏感になるべきだろう。したがって臨海部の土地利用を抜本的に考え直す必要があるのはいうまでもない。
事実、残念ながら事態はまったく動いていない。それどころか、もう大丈夫と声高にいう人たちが跋扈している。同氏がフランス留学時に、日本における災害時の大量死についていくら説明しても信じられず、伊勢湾台風(1959)で約5000 人の犠牲者が出たと世界に報道された結果、ようやくわかってもらえたという。価値観(文明)の異なる外国では、その惨事を繰り返さないための努力を何故しないかとむしろ反問されるだろう。日本では、災害で命を落とした多くの人々を深く悼む心はあれども、真に実じつを示す対策(抜本的対策)について考えることに熱心ではない。どこか他人事のように考えているフシがあるようにも思える。復旧の早さが、傷の治りが早いのに似て、そのまま、またいけそうな気分が出てくる。その「前向き」に過ぎるエートス(文明)が、「抜本」につながっていかないのではないだろうか。実際、こうした社会に否応なしに私たちは生きている。このような私たちの営為は、外の世界からはどのように目に映るのだろう。自分たちの「営為=文明」を「図像=風景」としてしっかりと見つめる、眺めることができれば、自分たちがすでにやっていること、やろうと思っていることに対する思慮が深まることにならないか。比較文明学会30 周年を記念して『文明の未来』が発行されたが、筆者は「近代文明の発達とランドスケープ(風景)保全思想の展開」という小論を寄稿した。そのなかで自分たちの営為の姿を風景として見つめ直すことの意義を説いた。近代における環境の保全もしくは自然や文化の保護思想は、大きく破壊による喪失に起因している。破壊が保全思想を生み出すというパラドキシカルな関係は19 世紀から20 世紀にかけて近代化の波が及んだ世界の各地に見られた。そして次の世紀に入り、2000 年に欧州ランドスケープ条約が締結され、わが国でも2004 年に景観法が施行される時代となった今、人間の営為の総体を風景として見直すことが求められているといえよう。
(千葉大学)