ニュースレター第59号巻頭言
「こうであれば良い」という未来の文明の姿が見えてこない。異文化理解や対話など、さまざまなことばが叫ばれるなか、その行きつく先にあるであろう「こうであれば良い」という文明の姿が見えてこない。たしかに、共存や共生という「ことば」は、「こうであれば良い」という理想的な状態を表わしてはいる。しかし、現実の、具体的な形をとった文明の姿は見えてこない。なぜだろう。
レヴィ=ストロースは、「文化とは、ある文明に属するひとびとが世界と取り結ぶさまざまな関係の全体のことであり、社会とは、それらのひとびとがお互いの間に取り結ぶさまざまな関係のことである」として、文明に、文化と社会を包摂する概念としての位置づけを与えた。この考え方に基づけば、文明を理解するためには、その文明に属するひとびとが、どのように世界と関係を取り結び、同時に、どのようにひとびとの間の関係を取り結んでいるのかを探ることになる。過去にあった文明を理解しようとするのであれば、相応の労苦を伴うとはいえ、そのなかにあった文化や社会のあり様を探ることを通して、その文明がいかなるものであったのかを、少なくとも図式的に明らかにすることは可能だろう。それは、過去の文明がもはや変化することがないからである。
しかし、今まさに私たち自身が身を置いている文明となると、そうはいかない。自分自身が直接に身を置いている社会自体が、より大規模な社会のなかの一部に過ぎず、その大規模な社会も、さらに大規模な社会によって、まるでマトリョーシュカのように、幾重にも覆われながら、変化し続けていることを知っているからである。文化も同じだ。したがって、「世界と取り結ぶ関係」も「ひとびとが互いに取り結ぶ関係」も、どのレベルで考えるかによって、まったく異なった相貌を示すことを知っているからである。現代文明がいかなるものなのかは、マクロな視点からでなければ、もはや考えることはできない。ところが、多くの学問は、総合科学に背を向けたまま、まるで細胞分裂を起こし続ける生物の如く、ますます細分化され専門化され個別
化し続けていく。その結果、専門外の分野へ口を挟もうものなら、専門家から「なにも分かっちゃいない」と袋叩きにあうのである。なぜ人類が学問をするのかなどということは、もはや重要な論点にすらならない。
では、文明の未来像はどうだろうか。共存や共生という理想的な状態を、抽象的な「ことば」で表現できたとしても、「こうであれば良い」という文明の姿を想い描けない。レヴィ=ストロースのことばに倣って言えば、ひとびとが世界と取り結ぶ関係と、ひとびとの間で取り結ぶ関係が、現実にどうなっていれば良いのかが思い浮かばないからだろう。当たり前のことだと言うべきかもしれない。ボーダレスでグローバルな世界になったが、ひとびとが、世界やひとびとの間で取り結んできた関係は、今も実に多様だからである。その多様性を活かしたままで、いったいどうすれば「こうあれば良い」という文明の未来像を描くことができるのだろう。レヴィ=ストロースの考え方だけが正しいわけではないが、彼の考え方を手掛かりにしてみると、
私たちが抱えている問題が想像以上に大きな矛盾をはらんでいることが、極めて明瞭に見えてくるような気がする。
調和ということばが、いつのころからかずっと自分の頭のなかに佇んでいる。日本語の辞書を引くと「全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突がなくまとまっていること」と書かれていた。文明の未来の姿を考えるのに、大きなヒントとなった。このことばは、「取り結ぶ関係」のあり様を表わしてはいまいか。「ほどよく」が難しいが、「つりあって」いることは、すなわち秩序のある状態である。そして、その秩序ある状態は、たしかに「矛盾や衝突がなくまとまっている」ことに他ならない。そこに想い至ったとき、恐ろしいことに気が付いた。「調和」ということばを説明しているこの一文は、さまざまな要素が「在る」ということを前提にしている。換言すれば、さまざまなモノ・コトの何かを排除するのでは、「調和」にはならないのかもしれない。勿論、戦争や紛争は「衝突」であろうから、解決していかなくてはならない。しかし、すでに失ってしまったものがたくさんあるのではないだろうか。時すでに遅しなのか。そう考えて恐ろしくなった。「調和」は、バランスである。もし、これが文明の未来像を考えるひとつの手掛かりになるとすれば、考えるべきことは、何かを排除することではない。すべてのモノ・コトが「在る」こと、あるいは「在りつづける」ことを前提にしながら、それらのあり方のバランスを考えなくてはならないのである。
(東海大学、第31 回大会実行委員長)