ニュースレター第58号「研究の現場から」

『易』は巨大な回文  朱 捷

『易』の比卦(か)と師卦をならべてみると、「比」が逆さまになれば、「師」に変わることがわかる。同じことはむろん「師」にもいえる。「比」と「師」はこうして往復循環の関係をなしている。

 宋の李禺に「双憶」という回文詩があり、その中の一句はこうである。「夫憶妻兮父憶児」(夫が妻を憶い、父が児を憶う)、逆さまに読むと、「児憶父兮妻憶夫」(児が父を憶い、妻が夫を憶う)。旅先の詩人と留守番の妻子が互いに思念する想いが往復してやまないみごとな回文となっている。

 往復循環をなす「比」と「師」もまさにこのような回文構造である。各卦の意味を簡潔に解釈する「雑卦伝」によれば、「比」は楽しい、「師」は憂う、といい、意味も逆さまになっているのである。

 『易』は知られているように、陰(- -)と陽(—)の符号(爻(こう))を六本組み合わせて、全部で六十四通りの卦とよぶ図像からなっている。六十四卦のどの卦も「比」と「師」のように、自分と回文になる卦をもっているので、六十四卦は、三十二組(うち四組は陰陽逆配列)の回文卦から構成されているともいえる。

 従来より回文という言葉こそ使わないが、六十四卦が三十二組のペアからなっていることは、六十四卦の配列からも誰にも一目瞭然である。しかし、回文の視点から見て興味深いのは、卦の形のみならず、卦を構成する爻もじつは回文になっていることである。

 爻にはそれぞれ図像学的意味がある。卦が逆さまになれば爻も当然配列が変わる。しかし、「夫憶妻兮父憶児」が逆さまになって配列が変わっても、「夫」や「妻」など詩句を構成する個々の語彙が変わらないと同じように、爻の図像学的意味は逆さまになった配列に引き継がれることも多々ある。たとえば、「夬」が逆さまになれば「姤」になるが、個々の爻で見ると、「夬」の九四(下から四本目の陽爻)がひっくり返れば「姤」の九三(下から三本目の陽爻)にあたる。爻辞を見れば、「夬」の九四は、「臀(いさらい)に膚(はだえ)なし。その行くこと次且(ししょ)たり。羊を牽けば悔亡ぶ。言を聞くとも信ぜず」。一方の「姤」の九三は、「臀に膚なし。その行くこと次且たり。厲あやうけれど大なる咎なし」。図像学的意味の大半は一字一句まで反復されている。そして反復されながら、残りの爻辞からわかるように、配列の反転によって新たな意味もあらわれている。

 六十四卦が互いに反転構造となる三十二組のペアからなっているのはおそらく、限られた六本の陰爻陽爻から構成されるという数学的理由によっているのみではない。卦、とりわけ爻の一本一本に注目し、それらがひっくり返ったあと、図像学的意味がどう変わるかを丹念に検証すれば、そのような数学的配列を選んだ『易』の根底に、今まであまり注目されていない回文的思考が潜んでいることはおのずと見えてくる。

 ところで、漢字の中に、「杲」と「杳」のように互いに逆さま構造となっているものがあり、意味も一方は日が木の上にあり、明るい、一方は日が木の下にあり、暗い、と反転になっている。このような造字法はけっして珍しいものではない。そもそも漢字の構成に、回文が意識されていると考えられる。

 同じような意識は、造語法にも見られる。漢語には、大小・有無・動静・興亡・抑揚などのように、意味が反対の漢字を付け合わせて一つの言葉にする例は、文字通り枚挙にいとまがない。「大小」を例に見ると、それ自身が一個の回文であるのみならず、「大小」には相対する両極のあいだの往復循環があらかじめ含まれている。英語に訳すと、sizeになるが、sizeでは「大」と「小」の絡み合いやグラデーションが見えなくなる。漢語の「大小」では、「大」の中に「小」があり、「小」の中に「大」があり、「大」と「小」が均衡を保ちながら互いに入り組んでいるのである。

 ひるがえって「比」と「師」も同様である。「楽しい」と「憂う」のあいだに、濃淡さまざまなグラデーションが折り重なっている。物事を変易してやまない往復循環運動としてとらえる易は、さながら一個の巨大な回文を呈している。相反するものは排斥しあうより互いにさまざまなグラデーションをなしながら循環することを、『易』は究極的に説いていよう。このような対立を否定し超越する『易』の哲学は、対立に目を奪われ、真実がグラデーションにこそあることをとかく見逃しがちなわれわれに、そして新たな文明を模索しようとする諸々の試みに、大切なヒントを与えてくれるように思われる。

(同志社女子大学)

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