ニュースレター第56号「研究の現場から」

オランダ東インド会社と近世植民都市バタヴィア  島田竜登

   オランダ東インド会社は1602年に設立された。18世紀半ば過ぎまで、イギリスなど他の欧州諸国の東インド会社よりも勢力を誇った会社である。その強靭さの秘訣は、アジア域内貿易を自らが行い、その利益を再投資する形でヨーロッパ・アジア間貿易を営んでいたことにある。それはまた、優れた軍事力、情報収集力、技術力などに裏付けされていた。

 1619年、現在ではインドネシアのジャカルタである、この地をアジア内の本拠とした。貿易上のバタヴィアの位置を一言すれば扇の要という言葉がふさわしい。バタヴィアを中心に、日本、中国、タイ、インドネシア、スリランカ、インド、イランといった海域アジア各地との貿易拠点であったのである。さらに、アジア各国とオランダ本国と結ぶ中継港としても機能し、オランダの世界貿易の要だった。

 オランダの古名にちなんで名づけられたこの町は急速に近世植民都市として成長する。18世紀末には郊外を含め人口は15万人前後までに拡大した。建設当初から何もヨーロッパ人のみが居住する地ではなかった。ジャワ人、スンダ人などのほか、マレー人やバリ人、それに中国人やグジャラート人、果ては南アジアから連れてこられた奴隷もいた。また、ヨーロッパ人といっても、オランダ東インド会社のオランダ人従業員ばかりだったわけではない。会社従業員にはヨーロッパ各地から募集した下級船員などもいたし、オランダ人やその他ヨーロッパ人の自由市民も居住していた。奴隷は当初は南アジアから、17世紀末以後はインドネシア諸島内から集められた。肉体労働に従事する会社所有の奴隷もあれば、私的に所有される奴隷にはヨーロッパ人の邸宅に住み込み、家内労働を行うものもあった。加えて、中国人やジャワ人なども奴隷を所有し、現地妻となる女奴隷もあったし、奴隷が奴隷を所有することもあったのである。

 まさしく人種の坩堝であった。彼らは緩やかな民族別居住区をつくっていたが、混血はありふれていた。信仰する宗教などを媒介に、特定の民族集団に属するという自己アィデンティティーのみが唯一、民族的線引きを可能にするものであった。

 1799年にオランダ東インド会社は解散するが、この植民都市は衰退することなく、発展の道をたどった。数年間にわたるイギリス占領時代を経て、オランダの本格的植民地統治の場となる。

 とまれ、この近世植民都市の魅力は、貿易拠点であったことのほかに、様々な人種・民族から構成されるマルチ・エスニック社会が形成された点にある。カオスとも思える社会に存在した異文化対立とその解決策の模索方法は、現代社会にひとつの視座を投げかける。たしかに、オランダ東インド会社を株式会社発達史のなかに捉えることは重要であろう。だが、現代的な問題意識を持つものには、もうひとつの重要な示唆を与えうる。オランダ東インド会社を史上初の本格的多国籍企業、ないしはグローバル・カンパニーと見る見方である。この新たな視角を具体的に可能にする題材のひとつが近世バタヴィア都市史といえるのである。

 研究のための文献は豊富だ。オランダ語史料はインドネシアやオランダの国立公文書館に保存されている。また、バタヴィア中国人コミュニティーの記録文書はライデン大学人文学部が所蔵・公開しており、「上から目線」のオランダ語史料では分からぬ都市社会の諸相を見せてくれる。そして、埋もれたフィールドを調査することは喧騒とした現代都市の中の清涼剤である。文献調査とフィールド調査、それはグローバル化する現代社会の混迷とその解決策を歴史的に模索するための営みなのである。

(西南学院大学経済学部)

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