ニュースレター第53号巻頭言

梅棹忠夫先生の学恩に報いる 鬼頭宏

去る7 月3 日に、梅棹忠夫さんが亡くなられた。梅棹さんは、1983年の本学会創立以来、顧問として活動を支え続けてきて下さったかたである。心よりご冥福をお祈りする。

 氏は共同体の生活様式を、生態系に対するもうひとつのシステム、すなわち文明系(文明システム)としてとらえた。それは人間と、人間がつくり出したさまざまな装置群と制度群とがおりなす関係の総体として定義される。このようなとらえ方には批判もあり、本『比較文明学会会報』紙上でもたびたび、祖父江孝男さん、上山春平さんらによって議論されてきた。ことばというものは国や民族によって使われかたが異なるから、議論によって決着がつくものではないのではないか。それゆえ、梅棹さんは注意深く文明系と呼んだのであろう。

 私は梅棹さんには大きな学恩を感じている。文明系のとらえ方こそ、人口変動を考察する場合、おおいに有効な概念だからである。私が日本列島の人口が長期波動を描いて変化してきたことに気づいたのは1974年に江戸時代の人口に関する速水融さんの講演を聴いた時であった。そして縄文・弥生時代人口を推計した小山修三さんの論文(1978年)に接して、確信となった。しかしその頃は、人口の循環的変動が環境と技術、生活様式の変化と関係があるものと認識していたが、ずばり文明システムの転換に照応するものとしては説明できていなかった。文明系ということばを得たのは、1981年に梅棹さんを中心として刊行された『文明学の構築のために』によってであった。

 1985年の社会経済史学会第57回大会で、私ははじめて文明システムの転換と人口波動を結びつけた報告をおこなった。梅棹さんは遷移を「主体・環境系の自己運動」として説明するが、私はその動因として人口圧力が最も重要ではないかと考えたのである。それぞれの時代の生活様式が人口増加によって困難に直面したとき、内生的要因や周辺文明との接触を通じて、新しいシステムへの転換が促される。より大きな人口支持力をもった文明システムへ転換する過程で、人口増加が起きるというダイナミズムを説明できるのである。

 もっとも、そのときの質疑応答はもっぱら文明の定義をめぐるやり取りに終始し、議論が噛みあわなかった。若造が理論めいた大風呂敷を拡げることや、社会科学に文明といううさんくさい概念を持ち込んだことに対する反発があったのだと思う。

 しかし時代は動く。上山春平さんが、『日本文明史』第1巻として『日本文明史の構想−受容と創造の軌跡』を刊行したころ(1990年)には、様相は一変した。翌91年に同じ社会経済史学会第60回大会で、川勝平太さんと小生がオーガナイザーとなってパネルディスカッション「日本文明史の提唱」を組織したところ、大勢の会員が集まって狭い教室がいっぱいに膨れ上がった。上山さん、角山栄さん、それに速水融さんというそうそうたる大家が加わって下さったおかげだが、文明に対するアレルギー反応が薄れてきたのも事実である。マルクス主義的な唯物史観に代わるものになるのかという期待もあったかもしれない。

 日本の社会科学において文明が広く論じられるようになったのは、さらに2 年後のことである。サミュエル・ハンチントンが『フォリン・アフェアーズ』誌上に「文明の衝突?」と題する論争的な論文を発表したのがその契機ではなかったろうか。本学会ではハンチントンへの批判が噴出して、94年の会誌『比較文明』第10号では「文明の共存−衝突説をこえて」が特集として組まれている。ハンチントン論文への批判はあまた提出されたものの、冷戦が終結した20世紀末期以降の世界を、イデオロギー、政治、経済の対立ではなく、文明と宗教が表面に浮かび上がってくるであろうとする見方そのものに大きな反対はなかったのではないか。

 ことばは概念を生み出し、概念は境目のない現実世界を一定のかたちで切り取って見せてくれる。文明システムということばに好き嫌いはあるにちがいない。しかし使う人によって異なる意味をもたせられている文明に代えて、システムとして共同体の生活様式を把握しようとするこのことばによって、民族、国家、地域など諸社会集団の構造や振る舞いかたをよりよく知り、比較することが可能になったのではないだろうか。

 私にとって梅棹さんは、学恩を授けて下さった一人であるが、比較文明学会にとってもそうであるにちがいない。世界を比較文明学的に研究し、提案していくことは、先生の学恩に報いる一番の道にほかならない。

                                                             (上智大学教授)

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