ニュースレター第50号巻頭言
森と文明 北村昌美
鶴岡で開催された比較文明学会第26回大会のシンポジウムのテーマとして「森から生まれる文明」が選ばれたとき、会員の多くはそのテーマに一瞬違和感を覚えたのではないだろうか。つい先年まで、「森」と「文明」は人類にとって互いに対極に位置すると思われていたにちがいないからである。そして、おそらくその印象は今なお完全に消え去ってはいないだろう。
しかし、森は文明の対極にあるといった印象が錯覚にすぎないことに、いずれはだれもが気づくにちがいない。何よりもまず、世界各地の文明の成立と発展の過程で、必ずといっていいほど森がかかわっていることを認めざるをえないだろう。すなわち、森が文明を生むとまではいえないにしても、文明の基盤であり、背景であり、さらに文明の発展を支えてもきたのである。したがって、森が文明の対極に位置しているのではなく、むしろ森あっての文明であることを銘記しておかねばならない。
その間、文明の発展に伴って、森と文明の関係もまたさまざまに変化してきた。その経緯はいうまでもなく多様で、森と文明の関係に焦点を絞っただけでも、文明史の課題はおそらく無限の広がりをもつことになるであろう。
大会のシンポジウムは、すぐれたパネリストを得たおかげで、これらの課題に光を与えることにみごとに成功したといえる。その細部を紹介する余裕はないが、ここで討議の内容をひとわたり振り返っておきたい。自然と人間の複合体としての文明、すなわち森と共にあった文明という本質的な問題に始まって、山や森が必ずしも人間にやさしかった訳ではないという自然崇拝の問題、密教から大乗仏教に至る宗教の意味、とくに密教の位置付け、人類としての自然調整の責務など、どのパネリストの問題提起も、聴く人を思わずひきこんでしまうほど奥深い内容であった。おかげで筆者もこれまで未知であった多くの領域について、あらためて眼を開かせてもらったしだいである。
筆者の専門は森林学であるが、最近まで森林学の視野の中にあった森は、単なる「もの」という側面だけであった。たしかに森は原材料の生産によって人類に役立ち、災害防止に貢献し、レクリエーションの場を提供してきた。しかしながら、人類と森のかかわりは周知のとおりけっしてそれだけのものではない。「もの」としての森の貢献よりも、むしろ文化面における人類と森のかかわりこそ重視すべきであろう。
ところが、これまでは肝心の文化面に向けられるべき視線が欠落していたというほかない。おそらくそれは経済優先のデカルトの思想に基づくものであろう。この思想を具体化したのが18世紀に始まった「森林経営」なのである。それ以来、森は経済の呪縛から逃れることができないままで今日に至っている。森と文明がややもすれば対極に位置付けされることがあったのは、そのためにほかならない。このような状態から解放されないかぎり、森が本来もっている文化的意義を人類は正当に評価できないであろう。
文明の発展のために、人類は何はおいてもこれまで欠落していた森の文化的側面の研究に真剣に取り組まねばならない。筆者はこれまで欠落していたこの文化的分野の課題を、あえて「文化森林学」として再編することを提唱したい。人類学の領域では、文化人類学という分野が確立されてすでに久しい。文化森林学という呼称は一見この文化人類学に類似してはいるが、いうまでもなく両者は本質的に異なっている。
冒頭に述べたように、森が文明に対してこれまではかりしれぬ貢献をしてきたとはいえ、けっして文明を創造する主役ではありえなかった。文明の創造にあずかるのはいうまでもなく人類なのである。したがって、表現が類似しているとはいえ、文化人類学と文化森林学の間には、本質的でしかも超えることのできぬ障壁があるといえるだろう。そのことは十分承知の上で、あえて文化森林学を提唱するのはほかでもない。森が単なる「もの」ではなく、文明それ自身にとっても、また文明相互の比
較にとっても不可欠の存在であることを明らかにしたいためである。
(鶴岡総合研究所)