ニュースレター第45号「研究の現場から」
文明学としてのマヤ研究 横山 玲子
「研究の現場から」「ご専門は?」と問われて、いつも躊躇する。相手が期待する答えは、聞きなれた学問分野の名称だろう。わかっていても、「文明学です」と答え続けてきた。中南米の先史文化を研究しているが、私にとってはどう考えてみても「文明学」なのである。
大学院時代から現在に至るまで、メソアメリカ(中米)、マヤのキチェー族に伝わる創世神話『ポポル・ヴフ』の研究を続けてきた。同時に、南米ペルーで遺跡分布調査と発掘調査を行ってきた。きっかけは、子供のころに見た中米のテオティワカンのピラミッドのスケッチだった。大学時代は、マヤに固執せず、ひたすら歴史理論の勉強に勤しんだ。先輩たちのお陰であったことは言うまでもない。マルクス、エンゲルス(単に、史学科にいるのだから共同体理論を理解しなさいという先輩たちの示唆のもとではあったが、私にはたいそう勉強になった)に始まり、先輩たちの興味につられて、わけも分からず、トインビーやシュペングラーの著した書物を読み、同時並行で勉強していた「マヤ」は、こうした理論の「どこにあてはまるのだろうか?」と思いつつ、理論に没頭した学部生活であった。1988年、マヤの研究を続けるために、東海大学の大学院へ進学した。そこで待っていたものは、文明学という聞きなれない学問だった。松本亮三先生から、中南米先史文化を研究するには文化人類学をきちんと勉強しなくてはならないと指導を受け、同時に齋藤博先生の哲学の授業を受け続けた。それぞれに異なる学問分野だったが、先生方に共通する「文明への視点」を学んだ。自分の中で、マヤに対する見方がどんどんと変っていった。特化されたマヤ文明ではなく、新大陸の文明史のなかにあるマヤ文明として考察しなくてはならないと、はっきりと気がついたのである。
1900年代前半までのマヤ研究は、英米の文化人類学者たちによって、広く新大陸の先史文化のひとつとして位置づけられていた。1960年以降、マヤ文字解読が飛躍的な進歩を遂げ、現在ではさまざまなセンターの王統譜が解明されつつある。だが同時に、マヤ研究は碑文、遺構、土器、石器などと、それぞれの素材ごとに細分化され、もはやかつてのような広い視野をもった研究者が育ちにくい状況になった。考えてみれば、私とは全く逆の方向へマヤ学は進んでいる。その結果、『ポポル・ヴフ』は私の知っている『ポポル・ヴフ』ではなくなった。文字で記録されたこの神話に、土器や壁画などに描かれた図像の解釈が付加されて、何と、神話自体が現代の学者たちによって書き加えられているのである。
これまで行ってきた『ポポル・ヴフ』の研究を、そろそろ一度まとめたいと考えている。まだまだ不十分ではあるが、もとの姿の『ポポル・ヴフ』に描かれたマヤの世界観をそのまま読み取ることの大切さを伝えたい。
(東海大学助教授)